随筆/日記
公文書

'10.12.27  随筆 

長所?

 胡散臭い自己啓発セミナーの類ではないが、ある種の場所ではよく「あなたの長所と短所を3つずつ挙げて下さい」風のことを言われることがあるだろう。その様にして自分を見直すことにはメリットがあるのだろうが、他人に問われるのは煩わしいことこの上ない。それに短所はすぐにでも実感を持って挙げられるが、長所となるとどうにも嘘臭くなる。

 娘が通っていた保育園の保護者会では、皆が居る前で子供の長短所を挙げて下さいと言われたことがあった。そういう事を把握しているのが勿論正しい親なのだろうし、そういう場で挙げられないのはいかにも具合が悪いので、場に馴染みそうな無難でそれでいて白けるほどには優等生的でない答えを返した。もっとも、それが何だったかまるで覚えていないので、心底そう思っていた事ではなかったのだと思うが。そういう場ですらすらとお綺麗な答えを返している母親(そういうのは大抵母親だ)を見ると、お受験でもするのかと鼻白んでしまうが、端から見れば私も同じに見えたかも知れない。

 短所というのは止むに止まれぬ場面で指摘されたりするものだが、面と向かい長所を言われることはあまりない様に思う。あるいは言われても私が覚えていないだけかも知れない。

 自分のどこが気に入ったのか妻に訊いても、結婚当初は「言わない」と言われ、暫くしては「さあねぇ」と言われ、最近は訊く気にならない。

 そういうのは例えば恋愛でもしているときには頻繁なのだろうかと考えると、更に心許なくなってくる。いや、そういう時は好意だけを伝え、根拠の方を挙げたりはしないものじゃないだろうか。それも人によるか。

 自分のどこが好きなのか人に訊くのは青臭いことと思うが、そういえば、青臭い時期にはそれを人に訊いた記憶はないな。


'10.12.20  随筆 

死ぬほど無神経

 通勤で私が使う西武新宿線は高架の区間が殆どない。特に都心部の住宅密集地では低い位置を走る。そのために車窓の見晴らしと言えるものは全くない。地下鉄よりはましに思われるかも知れないが、何も景観の良さを求めている訳ではない。目が疲れるのだ。目の前を遠さの異なる景色が過ぎ去るので、視点を固定できない。遠くの物をじっと見つめるのが目に良いとされるが、その全く逆になる。その点、例えば中央線のような路線はとても目に良いと言える。

 しかし一方で、その見晴らしが飛び込み自殺を誘うという説もある。中央線都心近郊の高架部分は発生率が高いそうだ。引き込まれるように飛び込むのだと言われる。

 「景気が悪いからね」とステロタイブな感想も多く聞かれるが、私はそれを怪訝に思っている。本当に自殺なのか? 駅のホームで周りの人を見ていると、何と無神経な人の多いことか。黄色い線の外側を、携帯電話の画面に見入ったまま歩いている人が多い。中にはゲームをしながら歩いている強者までいる。これではホーム下にポロポロ落ちても仕方がなかろう。

 それで本人がどうにかなるのは自業自得だが、電車を止められる電鉄会社はいい迷惑だ。「また遅れた」「いつまで待たす」と言われ無き非難を受ける羽目になる。駅員への暴力行為は年々増えているそうだが何の憂さ晴らしだと思う。そして、そういう不注意な人間や家族には賠償金くらい請求してもバチは当たらないのではないかとすら思う。

 ある雑誌の統計では、轢死者の記録に「自殺」と記されているものだけを拾った上で「自殺者が増えている」としていると言うが、ふらりと飛び込むからと果たして自殺と言えるかどうか。まさか訴えられるのが厭で家族が自殺と届け出るとか。そんな訳はないな。保険も下りないし。

 都心のホーム下なんてぞっとするくらい汚い。誰かの髪の毛や痰まみれのまま火葬されて構わないだなんて無神経にも程がある。


'10.12.6  随筆 

歳を取る
 さて、もう12月だ。先日クリーニング屋にスーツを出しに行ったら「今月、お誕生日ですね」と言われた。

 先週末、得意先の商業施設が開業を迎えた。今回は多くのアイテムで関わったということもあり、いつになく仕事をした様に思う。テナント数は20足らずの施設だが、いわゆるエキナカで、それも日本の中心の駅なので、結構な大イベントとなった。

 沢山の人が関わり、その殆どが知った人なので、何か自分のことの様な気持ちだった。そんな書き方をするとまるで社会人になりたての若造の様だが、そんな気持ちもある種大切な様に思う。得意先の一員になったつもりで仕事をするなんて、そうないだろう。

 忙しい時ほど呑みに行ってしまうもので、このところ少しは自制していた(つもり)のだが、どうせ終電もないしなどと訳の分からない言い訳を自分自身にして、深夜に馴染みの店に顔を出してしまう。

 それでも何かの波でたまたま早めに帰れる日はビールとモルト1杯ずつで帰ったりしたが、日頃の行いが悪いせいか、妻は顔を見るなり「お酒臭い」と奥に引っ込んでしまう。このところウイスキーばかりだから余計香りが残るのだろう。そんな訳で暫くハードリカーは努めてウオツカを呑むことにしていたが、帰宅は大抵家族が寝静まってからなので関係がなかった。

 風邪がきっかけで書斎で寝るようになったが、治っても戻りそびれている。深夜帰宅なぞしてというのもあるが、アイロンを掛けるため寝室に入ったりすると、そこは3人分の女の衣類で溢れており、ここに戻れる気がしないのだった。

 小6の娘は益々女の子ぽくなるし、隣で寝るのもどうだろうかと考えてしまう。言動も顔つきも小学生に違いないが、ほぼ160cmの身長で短いスカートをひらひらさせて歩き回っているのを見ると、これは自分も歳を取る訳だと思ったりする。きっと端から見れば私も43歳の男にしか見えないだろう(父親然として見られるかは心許ないが)。


読書 山口瞳「江分利満氏の酒・酒・女」徳間文庫

新刊の訳はないのだが、普通は巻末にずらずらと並ぶはずの初出一覧がない。「徳間文庫オリジナル版」だとも書かれている。が、しかし、当たり前だがほとんどどこかで読んだ内容だった。自慢じゃないが、山口瞳のエッセイで文庫版になっている物はおそらくほとんど読んでいるのだ。それと、批判じゃないが、山口瞳はよく同じ話を書くのだ。なんかデジャブーな一時を過ごしてしまったよ。やれやれ。しかし、なんだ、“男女と酒のこと”は時代が違えども変わらないとは言われるが、デモコレハチョットと思うものもあるヨ。


'10.11.18  随筆 

探し人

 人の話をちゃんと聞く人間だといういう印象を相手に持たれるには、当然まず相手の話を聞いて理解できなければならないが、加えて、聞いてますよ・分かってますよという事を相手に伝えられないといけない。その様に考えると、私のことを「人の話をちゃんと聞く人間」とどれ位の人が思っているか気になるところだが、その話はさておき、最近「この人は、人の話を聞いてないなぁ」と思う人に会った。

 実のところ、特に不快だった訳ではなく、基本的に悪い人や厭な人ではなかった。ただ、面倒くさかっただけだ。私(達)には、その人にある頼み事があり、会話にはそういう着地点があった。だから話の流れに全然関係ない自慢話の様なものが何度も挿入されても、都度適度な相槌を挟み、無難で肯定的なコメントを返せば良い。一対一ではないから、話を前に進めるのは他の人にやって貰っても良い。その様にして、彼には快く頼み事を聞いて貰えた。平生ほぼ繋がりのない間柄だったのだが、あるいはこちらの事を「人の話をちゃんと聞く人間」と思って貰えたのかも知れない。

 まあ、学童クラブ父母会の次期会長を頼んだっていう話なのだが。こんなに早い時期から根回しできて良かった。と言っても私は尻馬に乗った様なもので、セッティングは他の人がしたのだけれど。

 ところで、父母会市内連絡会の方の事をよく本欄でも書いているが、来年は続けないつもりでいる。来年度も下の娘は在籍してはいるが、仕事は来年更に大変になる予感もあるし、その他諸々気持ちの余裕もあまりないし手も空かない。元々「スピリッツ」ではなく「アイデア」と「技能」で貢献してきた役員なので、そこが手一杯では何も出来ないし、4年やって飽きたというのも正直なところか。

 自クラブの会長より自分の後継者探しが先決か。市内のどこかにML管理やメールフォームに慣れていてDTPができて隔週週末夜の会議に出られる学童の保護者はいないだろうか。


読書 村上春樹「もし僕らの言葉がウイスキーであったなら」新潮文庫(再読)

今年の1月に読んでいた本だが、たまたま手持ち無沙汰で。最近の家呑みは安スコッチなので、若干後ろめたい気持ちで読んでみたり…。


'10.11.12  随筆 

パーツを切り出す

 先週末は、風邪の引き初めで殆ど寝ていた。いつもの症状とやや異なる上に掛かり付けの耳鼻科が休みだったため、近くの内科に行った。特に悪い医者ではないのだが、検査予約の患者優先のため一般診察は1時間以上待たされるのが常である上に、処方される薬が私にはあまり合わない気がする。…良い医者でもないか。

 ともあれ、“一応受験生”の娘に移す訳にいかないので、私は一人書斎で寝ることにした。念のため、治ったら戻る旨を宣言したが、妻は反応なし。

 一人で寝て都合が良いのは、枕元まで酒を持ち込めること。尤も、不調故に一人で寝るのだから、実のところ酒など呑めない。そもそも横になるとすぐに眠くなるので、呑んだり本を読んだりするどころではなかった。それが風邪のためか薬のためかは分からない。

 そして、一人で寝ているからか、病気だからか、厭な夢ばかり見る。眠りも浅く、短く何度も寝るので、内容は続き物になったり、重複したり、あるいはパラレルになっていたり、様々だった。

 精神分析とか夢占い(言葉だけだと落差が大きいな)にはいずれも興味はないが、書き物の素材として要素を書き留めておくのも良いと思った。絶対的で本能的な、そして潜在的なシナプスで繋がっているから。

いつか見た街の情景
 複雑に合流し合う高架の下
 間にゴミの溜まったブロック塀に囲まれた空き地
不安を覚える場所
 高くて不安定な崩れかけた建物の壁面
 狭くて汚い古い坑道の様な通路や廃棄された地下通路
信用できない物
 繋がるかどうか分からない携帯電話
 掴まっていると突然崩れそうな手摺
厭な状況
 自分が言った覚えのない言葉を盾に責められる
 必要な物が手の届かない隙間に落ち込んでいく

 客観的には意味不明なパーツの羅列な訳だが、自分の中では温度や匂いまで把握できている。難点は、これで何かを書くと決定的にナーバスになりそうだというところだろうか。

 残念なことに、楽しく心地良い夢というのは忘れてしまうものらしい。


読書 井上荒野「切羽へ」新潮文庫

「どうしようもなく別の男に惹かれていく、夫を深く愛しながらも」という帯のコピーは余計だな。これで単純に不倫物を想起する方が幼稚なのか。表題の切羽(きりば)についてはラスト、主人公の台詞にのみ出て来る。
「トンネルを掘っていくいちばん先を、切羽と言うとよ。トンネルが繋がってしまえば、切羽はなくなってしまうとばってん、掘り続けている間は、いつも、いちばん先が、切羽」
ちなみに「切羽詰る」の「切羽(せっぱ)」は、日本刀のツバ部分の金具のことで別物。これが詰まると刀が抜けなくなるのから転じて窮地に陥るの例え。


'10.11.1  随筆 

酒が甘い

 ああ呑み過ぎてるなと思う時。酔い過ぎという意味ではなく、身体が受け付けてないなと思う時。勿論酒は旨く感じなくなるのだが、旨くないというより具体的な味覚としては、変に甘く感じてしまう。私の場合はビールから始めてハードリカーに進んだ後、小休止や〆でまたビールに戻ったりするのだが、このビールを甘く感じるともう止めておこう、となる。

 人と一緒に呑んでいると、そこまで呑まないか、あるいは呑んでも気付かないかのどちらかで、この感じは大抵一人で呑んでいる時の感覚と言えると思う。

 顕著にこの感じを覚えるのは、数軒ハシゴしてベースに戻っての一杯という時や、家呑みで少しうつらとして、さてもう少し呑もうかという時である。勿論こういう時は判断を誤っているのであり、さっさと切り上げて水でも飲んでおくべきなのだろう。

 このところ、家で呑むと深酒が過ぎてしまう。翌日は当然眠い。

 移動の電車内で目の前の席が空いたので座った。目的地まで30分、浅くでも眠れれば身体も休まるかと思ったのだが、酒臭いかと口にしていたミントキャンディーのせいでうつらとも来ない。我ながら間が悪い。車内で包み紙に吐き出すというのはみっともない様に思うが、かと言え、一気に噛み砕いてなくそうとすれば余計に強い刺激が口内に広がり逆効果だろう。

 そんなどうでも良い事を考えていたら、隣の女性が寄り掛かってきた。丈の長い上着の裾から随分と大胆にストッキングの脚が見えているが、上にショートパンツでも穿いているのかどうかは判らない。前に座らなくて良かったと思っていたら、まさか寄っ掛かられるとは。何が困るって、こちらが後から寝たら、わざわざ寄り掛からせるためにしている様に思われるではないか。…考え過ぎか?

 いつの間にか眠気がなくなり始め、気が付いたらもう夕刻となっていた。今日の一杯目まであとどれ位だろうか。


出口、らしきもの
今回は同日更新なので…
「出口、らしきものBLOG版」更新。掌編「アソートチョコレート」


'10.10.27  随筆 

We Are DEVO!

 音楽に興味がないというのは、子供向けのSFではよく悪役に与えられる特徴だったりするが、それでいくと私も典型的悪役である。興味の優先順位としては食べ物と同じ位に低い。

 もっとも、学生時代から社会人になりたての頃まではテクノの系統を割合に積極的に聴いていた。もう20年以上ほど前の事なので、当時はまだまだアナログ盤が流通していた。うちにもまだ十何枚かは残っているはずだ。しかし稼働するプレーヤーは確かもううちにはない。それどころかCDだってPCのドライブでないと聴けない。尤も、MP3のファイルであっても、専用プレーヤーは持っていないから結局聴くのはPCでなのだが。

 そんな私なので自分で音楽を買うことは希だが、ひょんなことからDEVOの新譜「Something For Everybody」を聴く機会に恵まれた。

 退化を謳うはずが不変らしき変体しない変態・DEVO。聴くと「あー、DEVOだ」とは思うのだが「まあ、DEVOだよね」で落ち着く。というか、これいつのDEVOだっけ、みたいな。ともあれ残念ながら期待するほどには面白くなかったのだった。むしろ期待し過ぎか。

 自分の初DEVOは「JERKIN' BACK 'N' FORTH」という曲で、当時全盛の「ベストヒットUSA」で見たPVだった。無表情に歌い、異様な振り付けで踊る。アナログシンセの重厚で新しい音(尤も当時はモノラルのテレビで見た訳で、本物の音自体は後で聴いたのだけれど)。実はダサいんだけど、格好良い。

 その後の再会は、リーダーであるマーク・マザーズバーの立花ハジメとのコラボレーションだった。と言っても情報を追っていたのではなく、何かがきっかけで立花ハジメを聴いたら、作曲がマーク・マザーズバーだったという次第という記憶である。

 ここ暫く、昔買ったCDを引っ張り出して聴いているのだった。PowerBookでね。



'10.10.26  随筆

恋愛モノ(小隊司令部発ver.)

 少し前の酒場での話だが、その場にいる顔見知りに恋の相談やら愚痴やらを漏らす若い女性客がいた。ドラマのワンシーンにしてもありがちという気もするが、実際にはまま出会す。ともあれカウンターが何とはなしにその話題に呑まれてしまうのは、少し困ったことである場合も多い。

 その時の相談役は私ではなかったのだが、比較的私はそういう話をし易いらしい。相談ではないが、先日も20近く年下の女性の“近況”を聞いて、「そういう話、あまり男性に話さないよね?」と逆に聞いてしまった。某嬢曰く「お姉さんみたいなお兄さんだからですよ」とか。

 その晩は、相談役となってしまった女性が、違う話題を織り交ぜて方向転換を図るも不発。周りも諦めて黙って呑み続ける。そろそろ皆が面倒臭くなってきたかという時に、相談役の連れが痺れを切らしてか「そんなの場数踏めばわかるわよ」と一蹴。そうだそうだ、それで終わりだ。

 ところが相談役が「あなたのは全部不倫じゃない」と突っ込む。

「あら、楽しいのよ」

 彼女があまりに事も無げに即答するので、思わず顔を覗き込んでしまった。私は“鳩が豆鉄砲喰らった”様な顔でもしていたのか、彼女は涼し気な表情のまま「恋愛するのはね」と、私の方を向いて付け加えた。

 恋愛を面倒臭く思うのは、自分自身が面倒臭い人間だからだと言ったのは誰だったか。私はそもそもそれを楽しむ身分ですらない訳だが。

 さて、ここ暫く、小説コミュニティに参加しているということもあって、継続的に掌編小説を書いている。ほとんどが恋愛物なのだが、実のところ学生時代に漫画を描いていたときもそうだったので、自分としては違和感ない。傍目にはどう映るのだか。

 しかし創作と日々を書き綴る随筆の差異はそれなりあるので、ここらで創作発表の場を本欄とは分離することにした。興味を抱いていただける方は引き続き宜しく。更新のお知らせは随時、本欄右にも表示されるツイッターにて。

「出口、らしきもの」BLOG版


'10.10.22  随筆 

容れ物に入っている物

 目の前を黒猫が横切ると云々という諺は洋の東西を問わずあるが、私の場合はしょっちゅう出会す日常のことなので、特に何も起こらないだろう。近所に居着いている野良猫の中には2匹、黒猫がいる。今朝もその1匹が目の前を横切ろうとした。ところが珍しくこちらをじっと見て立ち止まり「にゃ」と啼くので、「にゃ?」と言い返すと踵を返して生け垣の中に消えてしまった。

 今月に入り仕事ではやっと諸々の案件が動き出し、取り敢えずは仕事をしている体を成す日々を送っている。とは言え相変わらず毎晩のように呑み歩き、何かを充填しているのか消耗しているのか、よく分からない日を送っている。間違いなく減っているのは財布の中身か。

 過日の本欄で穴の空いてしまった財布の画像を載せたことがあるが、「こんな財布を使っていると、お金が貯まりませんよ」とのご指摘を受けた。勿論貯まらないのは財布のせいではないのだが、言うまでもなく貯まった方が良いし、何より不便だった。革製品の補修は不得手で自信がなかったので、財布を新しくした。

 今まで、財布と言えばずっと二つ折りの物を使っていた。しかし鮨詰めの鞄に入れるには都合が悪く、大概開いた状態で入れていたのだった。あまり財布には良くないとも言われたので、初めて、より薄いであろう長財布にした。

 これが、鞄への収まりは良いし、デザインも色(もちろん緑)も気に入っているのだが、とにかく使い慣れない。もう一月以上経っているのだが、いまだに逆向きに開いてしまい、銀行のカードを出すつもりが花屋のポイントカードが手前に来てしまう始末である。どこに何を入れるのが正解なのか、人に訊いても正解はないのだと言われる。

 そして、新しい財布は気分が良いが、替えたからと言って中身が増える訳でないのは言うまでもない。



'10.10.20  随筆 

人生は無限リセット可能か?

 珍しくアポイントを貰ってKさんの所を訪ねた。大分ご無沙汰をしていた。事務所に入ると何やら立て込んだ電話の最中の様だった。身振りで打ち合わせブースへ誘導を受けたので、そこで待つ。

 数分後「お待たせしてすみません」とKさんは申し訳なさそうに現れた。

 「何かお忙しいところに当たってしまった様で、こちらこそすみません」と私。ブースからKさんのデスクは近く、電話の話し声も所々聞き取れた。

 とても親身になって答えていたので「何か…深刻なトラブルですか?」と訊くと、元生徒が、何か大切な用事の出先で母親との待ち合わせで会えずに、途方に暮れて電話を掛けてきたという話だった。

 いや、予備校の卒業生なら18にはなっているはずだが。しかも卒業した予備校の事務員に電話する様な用件だろうか。「大切なお得意様へのアフターフォローみたいなものです」。しかし私が余程呆れた顔をしていたのだろう。「まあ、年間1千万は遣っていただいた訳ですから」と補足説明がある。なるほど、それはそれは。それにしても凄いな。理系の個人授業で予備校に年間1千万か。

 しかもその彼はまだお客になる可能性があるのだという。入ってみて合わないと感じて他の大学に入り直す生徒が多いのだそうだ。「このご時世でも就職難とか関係ないんですか、医者は」と訊くと、親が開業医なのだそうな。笑うに笑えん。

「“自分の居る場で何とかしよう”という気持ちが薄いみたいですよ、最近の子は」
「いつまでも何でもやり直しが効く、みたいな幻想ですか」
「普通は、意に沿わない環境にあってもそこで何とかしようと努力する訳じゃないですか。今は違うみたいです」

 Kさんは元々教師志望だったのが、塾の講師を経て、今は予備校の事務方を務めている。歳は私の少し上かそこらだ。

「治療まで何度もやり直し可能とか思われてたら厭ですね」
「ははは」

 笑うに笑えん。


読書 平安寿子「なんにもうまくいかないわ」徳間文庫

先日「あなたがパラダイス」を読み終えて、平安寿子はしばらくいいやと思っていたのに、既に買ってしまっていたので読んだ。「男の編集は五十女を書かせてくれない」と愚痴っていたくせに本作は五十女の話である。はちゃめちゃな志津子を中心にしたアンソロジーなのだが、こういう“お姉様”は確かにいる。ま、お近づきになることはほとんど無いのだけれど。話としては面白くできている。理屈というか辻褄も合っている。感情表現も伝わりやすい。しかし、なんというか、読者に上手く伝わらない様な登場人物の感情とでも言う様なものが感じられないと、物足りないというか、信用できないというか、そんな風に思ってしまう。


'09.10.14  随筆 

掌編「ほうれん草のおひたし」

 バカーン!

 誰だよ人ん家のドアを蹴破るバカは。ボロアパートの木製ドアは、ノブの周りが四角く曲がってあっさり開いてしまった。地味なロゴの入ったアウトドアウェアを着た白人の男が、勢い余って上がりかまちの上に乗っている。

「“食の番犬協会”ですッ。生ほうれん草を食べるのは止めてください! 野蛮です!」

 思い出した。八百正の前で水を巻かれていた奴だ。オヤジの話だと駅前のホクサンマートでも警備員に摘み出されたという話だ。八百正から俺を付けて来たらしい。ドアを叩かれても無視したんだが、蹴破りまでするとは思わなかった。頭が弱いのか?

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出口、らしきものこの作品は、mixiの「お題に合わせて短編小説を書こう」コミュのお題「いいがかり」に参加。字数制限はコミュの仮規定2000字に準拠。隔週提出の課題に12連投目。学生時代にもなかったな(笑)。

 


'09.10.9  随筆 

“私”という[アーカイブ/アプリケーション/スクリプト]

 実は、私は既に死んでいる。

 では日々更新される本欄は何かと言えば、過去の記憶アーカイブと、そこから諸々の思考パターンを解析するアプリケーション、そしてそのパターンに沿って特定の文体でテキストを書き出すためのスクリプト。それが「小隊司令部発」を構成する全てである。

 リアルの私と巧妙に絡んでいる様にコメントを付けてくるのもプログラムであり、過去の仕事仲間を装ったり、通っている酒場の亭主の体(てい)を成してはいるが、全て架空の仮想人格プログラムである。

 だから、オフという事でそれらしき人物が姿を現しても信用しない方が良い。その四十面をした私を名乗る男は、記憶アーカイブにオンラインしたまま、圧縮された思考パターンに基づいて書き出したテキストを音声変換しているだけの端末に過ぎないからだ。色付き眼鏡に度なんか入れなくても7ptの文字くらい読めている。

 なんて事を、一人呑みながら考えていた。

 私がオフラインで会ったその人に話す自分の近況というのは、そういえば何日か、何週間か、何ヶ月か前の本欄の記事だったりすることに、後になってから気付いた。書いたことすら忘れている事象もある。話しながらある時点で、彼女が既にアーカイブの一部を読み込み済みであることにも気付くのだが、それが全部であろうはずもない。しかし、ではどれとどれなら話すのが適当か、判断が付かない。

 親しい相手なら「これ、ブログに書いたような気もするけれど」等と断りを付けるのだが、そうでもない相手に、自分のブログを読んでいることを前提に話すのはそもそもおかしい。

 しかし最大の問題は、そう、かの内田百けんの言葉「私というのは文章上の私であって現実の私ではない」ということであり、本欄の記述全てが現実の私の全てを表している訳ではない点にある。

 やけに私のことに詳しいな。いやこの人こそ何かの端末なんじゃないのかと思いながら、まあ酒を呑んでいたのが週末の話である。失礼な話だなぁ(苦笑)。


読書 草凪 優「どうしようもない恋の唄」祥伝社文庫

宝島社「この官能小説がすごい!!大賞2010」受賞作なので、分類としては官能小説。確かに吊革に掴まって読むのには向いていない(苦笑)。しかしそういう描写は意外に少なく比率としては1割以下。仕事も妻も失った男がソープ嬢に拾われて…というストーリーだが、然程お座なりで陳腐な物ではない。当初想像していた“堕ちていく感じ”は薄いのがある種期待はずれか。これは…、ラブストーリーだろう?

 


'10.9.29  創作

掌編「手を繋ぐ」

 手を、繋いで貰うのが好き。

 なぜだろう。とても安心する。だって好きな人と街中で並んで歩いても、直接に実感できる繋がりを持てるのは手と手を繋ぐことくらいだから。

 そういう気持ちを伝えられないほど内気な訳でもないから、好きな人には「手を繋いで」とは言う。でも男の人は、何故だかそういうのにすんなり応えてはくれない事が多い。あるいは、応えてくれない人を好きになってしまうことが、あたしには多かったのかも知れない。

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 出口、らしきものこの作品は、mixiの「お題に合わせて短編小説を書こう」コミュのお題「みちびき」に参加。字数制限はコミュの仮規定2000字に準拠。このお題で2本目。全体で11回連投目。いい加減一休みするかな。

 


'10.9.25  随筆 

持て余す暇

 雨の休日に暇を持て余す。たかが自転車に乗れないだけなのだが、何もするべき事がないかの様な気分になってしまう。

 家族全員が揃っているので、昼はどうするんだと女性陣が話し始める(元々私以外は全員女性だが)。母がピザが良いと言うが、高くて旨くもない宅配ピザより、駅向こうにある小さなイタリア料理屋のピザの方が良いと妻が言う。予約しないと入れないよと妹が言うので電話をすると、「今日は全然大丈夫です」と言われたので出掛けることに。昼直前なのにラッキーだ。

 …ラッキーか? かなりの豪雨だが。しかも雨は行きと帰りに集中的に降った。そういうものである。帰り着いて、玄関や車庫の雨樋から雨が溢れ落ちているのに気付く。濡れても良い格好に着替え、樋に詰まった葉を取り除くための園芸用の長い棒を手に再び外に出た。

 一通り家中の樋を掃除すると、また手持ちぶさたになってしまった。

 そこへ母が、古い自動血圧計がエラーを起こすと言うので見ることにした。スイッチを入れるとポンプは作動するのだが、カフ(腕に巻くベルト)が膨らまないままエラー表示が出て止まってしまう。内部のどこかでエア漏れしているのだろう。ばらすと果たして硬質ゴム製の継ぎ手の差し込み口が折れていた。元の突起を切り取り、近い太さのアルミパイプを差して瞬着で固定する。ここまでして直す奴もいないかと思いながら(しかし私の知人には多い気がする)、組み直してスイッチを入れるとカフが膨らんで修理完了。

 古い電池物の不動は大概が電池起因だが、これは入れ替えたばかりだそうだった。電池といえば、青鍛冶さんが自分のPowerBookの電池容量についてツイートしていたので、気になって(半ば胸騒ぎがして)自機の「完全充電時の容量」を久しぶりに確認すると1337mAhしかなかった(新品時は4500mAh)。そりゃ出先でバッテリーが保たない訳だ。血圧計の面倒を見ている場合じゃなかった。


そう都合の良いアルミパイプなんか…転がってた。自転車のワイヤーキャップ。

こんな感じ。もっと綺麗に仕上げろよ。ま、経年劣化で他も駄目になるだろうし。

しばらく見ていなかったシステムプロファイラ。暑さのせいじゃなかったんだ…。

'10.9.23  創作

掌編「与太話」

「いま、どこ?」
「海の上を走っている」

 耳に差したハンズフリーフォンから彼女の「ふん」という返事が聞こえてくる。

「溺れないようにね」
「誰に?」溜息の後、切れた。

 併走車がいないのを確認して車線を二度変えてみるが、カーナビの画面では、相変わらず僕は数百メートル東の海の上を走っている。そんなに古いタイプでもないのだが。

本文はこちら


 出口、らしきものこの作品は、mixiの「お題に合わせて短編小説を書こう」コミュのお題「みちびき」に参加。字数制限はコミュの仮規定2000字に準拠。そういえば、これで10回連続参加だった。

 


読書 角田光代「三面記事小説」文春文庫

事件記事をモチーフにした短編集。重松清を思い出したり(ルポライターから小説家に軸足を移した)した。それにしても重いなぁ。元の記事は冒頭デザイン的に配されるだけで特に説明はないのだが、記事は本当に全くのモチーフらしい。それより、作り込まれる細部や展開される背景にただただ感心しつつ、しかし胸を掴まれた様に息苦しさに重い気持ちになる。


'10.9.21  随筆 

失踪女と浮浪者

 数ヶ月前に私の前から姿を消した女性がいる。

 と言ってもそれはネット上の話で、現実の知り合いではあるものの、別段深い関係でもない。SNSによくある話で、いつの間にかリンクを切って名前も変えていたのだった。コミュニティとして共有していたものは何もなかったし偶然街中で出会す類の知り合いでもない。過去の直接メッセージを辿ればそれでも辿り着けたのだが、辿り着いた先の彼女を知ったところで意味もないので、そこでお別れという訳だ。そこまでの興味もない。

 実を言えば正直ほっとしたところもある。ものの考え方が根本的に違うのだった。これだけ好き勝手書いている…もとい信念に基づいた発言をしている私でも、直接の知人の信念にケチ付けるような記事はそう迂闊には書けないので、彼女の信念を逆なでする内容の記事は避けていた。まあたまたま面白く書ける題材でもなかったのだが。

 例えば電車で寝ている浮浪者をどう思うか? 私はアウトだと考えている。ところが彼女は「望まずに成らざるを得ない姿なのに非難がましく接するのは間違っている」と書いている。

 公共の場所で他人に不快な思いをさせてはいけないというのは公衆道徳の基本と考える。ついさっきまで乾いたゲロの上に寝ころんでいた態(なり)で悪臭放って座席に座っていてはいかんだろう。それが許容されるならボロボロの浮浪者も百貨店の通路を闊歩できるわけだが現実にはあり得ない。

 それから、電車は移動のための物であり、時間を潰すための場所ではない。それが許容されるなら乗り越し清算金なぞ発生しない。「ここに居られないなら俺たちの生活はどうなるんだ?」という場所とは明らかに異なる。

 どんなヒューマニズムなのだか、理解に苦しむ。

 私は、浮浪者そのものの存在を否定している訳ではない。ただ、どんな社会にも守られるべき“区分”は存在するだろうということだ。

 何も声高に書き連ねることでもないのだが。


三連休最終日の敬老の日は、百歳間近の義理の曾祖母を訪ねて90km先の山梨へ。帰路は例により渋滞。それよりも、管理を担当する学童保護者会市内連絡会で意味不明の理不尽な事をMLに発言する人がいたので、帰宅後延々対応するはめに。お陰で楽しい休日もへったくれもなくなる。

'10.9.18  随筆 

イイ女とフレンチレストラン

 うちで制作している情報誌にNY情報を紹介するレギュラー記事があり、その仲介をして貰っているコーディネーターの女性に5年ぶり位に会った。NY在住で、あちらの情報や商品を日本に紹介したりする会社を経営している。その商材の売り込み先になりそうな得意先を紹介した。

 それにしても、1年の2/3を向こうで暮らしているのに、日本のそれも品川駅近くに事務所兼用とはいえ部屋を借りていてクルマもあるというのは、どういうライフスタイルなんだろう。しかも仕事が出来てイイ女。年齢は多分私の2、3上くらいだ。ドラマの設定としても嘘臭いが、事実は小説よりも〜というところか。

 ああいう女性と個人的に近づけるというのはどういうタイプの男性なんだろうか。いや、私がお近づきになりたいとかではなくて、純粋に小説のネタとしてだが。想像だけでは陳腐になりがちだが、そんな話まで出来るほど親しくはないしなぁ。

 それにしてもこのところ人と人を繋ぐという事が続く。と言っても自分のビジネスにはならないのだが。まあ縁というのは買えないし売れないものなので、それを使える人がいれば、自分が持っている時に繋いでおくのが正しいだろう。それが何かで返ってくるかどうかは期待しないで(そして往々にして自分の方が忘れてしまうのだが)。

 先日は、以前の仕事で縁のあるフレンチレストランを、得意先のデベロッパーに紹介した。そこのリーシングの総責任者が付き合いの長い人(本欄でも以前登場のW氏)だったので、すぐに会って貰えたし、話もざっくばらんに出来た様だった。

 最後に既存店の案内を受け取ると「一度伺いますよ。とにかく食べてみないと」とW氏。「紹介者が私では舌は信用できないでしょうしね」と私が言うと、「それはそうだ」と笑われた。失礼な。まあ、その日の昼飯がカップラーメンとコンビニおにぎりという奴がフレンチレストランを紹介というのも確かに信用できないけれど。


'10.9.7  創作

掌編「宿題」

「山岸さんは本とかよく読むの?」

「ええ。通勤時間、長いですから」あと、人をよく待たす得意先もいるしな。

「本屋のさ、最近店頭でよく見掛けない?」よく見掛けるベストセラー小説のタイトルを挙げる。その作品に限らず作家自体あまり読みたいと思う作家ではなかった。「あれ面白いよ。絶対お薦め」余程趣味の合う相手でなければ、本の「お薦め」は百害あって一利なしだ。何のあてにもならないし、時間も無駄になる。しかし相手が得意先では話を合わせないとならないか。

「今読んでいるのが終わったら、読んでみますよ」
「おっ。じゃあ宿題だな」

 読後感までレポートしなければならない感じだ。やれやれ。学生時代以来だ。

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 出口、らしきものこの作品は、mixiの「お題に合わせて短編小説を書こう」コミュのお題「宿題」に参加。字数制限はコミュの仮規定2000字に準拠。

 


'10.9.6  随筆

商店会の祭り
 地元の祭りに行った。保護者会の輪番で見回りでも行くのだがそれはつまらない話なので略。

 ここは生まれ育った土地だし、小さい子供が二人いて保護者会なども割に積極的に参加している上に地元で呑みもするので、祭りへ行けば知り合いに出会すことが多い。それが楽しいか煩わしいかは人により違うだろう。

 祭りと言っても由緒正しいものと言うよりどちらかと言うと商店会の催し物に近い。御輿は実は何年も前から隣町からの借り物だそうだ。新宿から急行で20分。新田形式の土地が中心でまだ地主の多い地元である。田舎と言うほどでもないが、ベッドタウンと言うほど歴史の浅い町ではない。勿論それを維持できる地元の力が衰えてしまったのだろうから仕方がない。

 逆に良くなっているのではないかと思えるのは、暫く地元商店のみの出店だったのが、テキ屋を復活させたということか。それも十年スパンの話なのだが。テキ屋を入れると警察の協力が得られなくなり、交通整理などを自力で行わなくてはならなくなるのだそうだ。

 随分前にも一度書いたが、祭りというのはあくまでハレの空間であって、そういう場で顔を合わせるのが見知ったいつもの店の親父では意味がないのである。多少怪しげな、知らぬ顔がいるからこそのハレの場であろう。“店”としてのクオリティはまた別の話だが。(昨夜のドネルケバブは食べる意味不明だった)

 ところで夜の街で困るのが秩序の維持である。賑やかな場所では少々羽目を外す子供がいる。祭りはある種の仮設・夜の街でもある。どこの町の祭りでも、テキ屋の屋台は怪しげな親父やヤンキー然とした若い子が立っている。名の知れた雷親父などいなくなり久しいが、それでも余所から来た知らない危なそうな大人には「ちょっと騒ごうか」位の子供では太刀打ちできない。これは立派なコントロールだろう。

 いや、だから、エロい格好したヤンキー姉ちゃんが見たいって話じゃなくてさ。

'10.9.3  随筆

「暑いですね」

 ご近所の挨拶はまだ当然「暑いですね」である。「そうですね」と返すと、「お仕事大変ね」と言われる。しかしデスクワーク以外では、得意先回りや打ち合わせと言っても、大半は駅ビルに入っているか駅ビルそのものであったりするので、実際に仕事中の屋外移動で暑くてしょうがないという思いをすることは少ない。屋外はせいぜい1度に5分程度しか歩かない。

 平日1日の内で最も暑い思いをするーー現に汗をかくという意味でーーのは、実は朝の通勤時に自宅から最寄り駅までの10分程度の道程である。電車に乗った後、乗り換えの高田馬場までの20分は、ずっと汗を拭っている。あるいは西武線は冷房のための費用をけちっているのかも知れない。

 こんな時にホームの定位置でない場所でうっかり乗ろうものなら、下手をすると弱冷房車なんぞに当たりかねない。朝の通勤時の弱冷房車は何かのつまらない冗談の様だ。女性専用車に掛かる意味不明の沢山の例外に匹敵するつまらない冗談だ(あれは銭湯と混同しているとしか思えない)。

 それはさて置き、今朝駅までの道で、腹を上にして路上に転がっている蝉を見掛けた。“死んだ蝉”はなぜだか人が近付くと狂った様に飛び跳ねる。知人の姉が、何を怖れるって、蝉のそういうところほど怖いものはないと言っていたそうである。その話を聞いた直後だったので、半ば嬉しくなりそれを証明すべくわざと近付いた。果たして蝉は、昔に駄菓子屋で売っていた玩具の様に喧しい羽音をたてて暴れ回り、私の脚に激突して隣地の庭に転がっていった。

 蝉の死骸を見て行く夏を惜しむというのがあるが、寿命1週間の虫なのだから、取り立てて夏の終わりに集中して死んでいるという訳ではない。それより、今年は猛暑が長引く様だから、蝉の死骸が弾切れになり「虫で感じる季節感」の空白が出来はしまいかと余計な懸念を抱きつつ、駅までの道を歩いていた。蜻蛉やコオロギにはまだ暑かろう。


読書 フィリップ・K・ディック/朝倉久志訳「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」
ハヤカワ文庫SF(再読)

この話、出だしはデッカード夫妻の諍いシーンだったんだな。結構所々忘れている。いつ以来の再読か全然覚えていないが、栞代わりに挟んであったのは当時通っていた日比谷バーのサービスチケットで、有効期限は'93年8月となっていた。丁度17年も前か。これだけ生きながらえているのだから、私はアンディーではないようだ。