ほうれん草のおひたし

'10.10.14

 バカーン!

 誰だよ人ん家のドアを蹴破るバカは。ボロアパートの木製ドアは、ノブの周りが四角く曲がってあっさり開いてしまった。地味なロゴの入ったアウトドアウェアを着た白人の男が、勢い余って上がりかまちの上に乗っている。

「“食の番犬協会”ですッ。生ほうれん草を食べるのは止めてください! 野蛮です!」

 思い出した。八百正の前で水を巻かれていた奴だ。オヤジの話だと駅前のホクサンマートでも警備員に摘み出されたという話だ。八百正から俺を付けて来たらしい。ドアを叩かれても無視したんだが、蹴破りまでするとは思わなかった。頭が弱いのか?

「人様の食生活に土足で踏み込むような発言と行動は控えて欲しいんだが」

ていうか言葉通り土足のままなんで、ジョークが上手く決まった感じでニヤけそうになった。

「それに、生のまま食う訳じゃないよ。おひたしにするんだ」
「ほうれん草は缶詰で食べる物ですッ。生を茹でるなんて野蛮!」

 蹴破ったドアに引っ掛かって脛から血流しながら何言ってんだ。

「血が出てるよ」
「ボクが怪我したのはこの頑丈なドアのせいですッ。治療費を請求します」
「そうじゃないよ。床を汚すなって意味だよ。それから靴履いたまま上がるなよ」っていうか勝手に入るな。
「ほうれん草は缶詰で食べてくださいッ」
「手前の飯の食い方をいちいち人様に押し付けるのは良くないよ」
「いいですか。ほうれん草は缶詰で食べる物なんですッ。アメリカではみんなそうしています」

 お前、米帝国策アニメの見過ぎじゃないか? 頭のてっぺんから声を出すガリガリノッポの彼女なんていねぇだろな。そろそろ紳士的に話すのがバカらしくなってきた。

「あのな」

 そこまで言ったら、今度はドアの陰から痩せた女が現れた。ポッパァーイ!! とは叫ばなかった。

「“食の番犬協会”です。今日はほうれん草の正しい食べ方についてご案内するため伺いました」
「間に合ってるよ」
「缶詰のほうれん草は、ほうれん草の専門技術者によって管理された衛生的な専門工場で生産されており、有害な農薬が残留していることもなく安心して食べることが出来ます。これに対して市井で販売されている生のほうれん草からは多く残留農薬が検出されています。合成ピレスロイド系農薬シペルメトリンの検出頻度が高く、次いで有機リン系農薬クロルピリホスや、国内では1981年に使用禁止となったエンドリンが検出される場合もあるんです」

 いたな、こういう女。妙に人前で喋るのに慣れているけど学級委員ていう感じでもない。周りから親しまれたりからかわれたりして人の前に立つというタイプじゃないのだ。どっちかと言うと他人を少し侮った喋り方する奴が多い。

「生食で食べ続けると、ほうれん草に多く含まれるシュウ酸の過剰摂取となり、体内のミネラルと結合して肝臓や尿路に結石が出来る事もあるんです。工場で茹でられたほうれん草はシュウ酸が少ないんです」

 ともかくおひたしは良いな。俺にとってのほうれん草料理と言えば、祖母の作るおひたしだった。

 小学生の頃、授業が終わると俺は近くに住む父方の祖父母の家へ行き、夕飯後に父が迎えに来るまで過ごした。食卓には祖父の好物であるほうれん草のおひたしが、必ず上った。祖父の好物だから、食べ方も祖父に倣う。小鉢に一周半は醤油を掛け、ジャリジャリと音が出そうな程の味の素を掛けた。一人で留守番が出来るようになってからも週に何日かは祖父母の家へ通ったが、中学に上がり両親が離婚をすると行きづらくなり、高校生のうちに祖父が亡くなり、すぐ、祖母も亡くなってしまった。

 祖母の作るほうれん草のおひたしは、とても鮮やかな緑色だったのをよく覚えている。奴らの薦める缶詰の気色の悪い色とは比べものにならない。

 祖母のおひたしのことを思い出したら、急に今のこの状況に腹が立ってきた。ボロアパートのフロアマットだけではなくて、もっと大切な物を土足で踏みにじられている気持ちになってきた。

 しかし俺は二人には何も言わなかった。

 そのまますぐ横の流しに立ち、鍋にポットの熱湯を入れる。男は同じ事を大声で繰り返し言い、それが一段落すると女が蕩々と尤もらしい演説をぶったが、俺は構わず沸騰した湯にほうれん草を放り込んだ。

 俺が旨そうにほうれん草のおひたしを食べ始めるまで、あんたらそこで見ているかい? それならそれでも構わんさ。それ位の“覗き趣味”は許してやろう。

 それでも2人は玄関口に立ち尽くし、やがて出来上がったおひたしを俺が食べ始めると、女は恨みがましく何かを口の中でつぶやき、男は無言で出て行った。まるで片思いの相手のベッドルームでも覗いたみたいな面だった。

 お前らが何を言いに来たか興味もない。人の“飯”にケチ付ける様な奴の言うことは、はなから聞いちゃいないんだよ。


この作品は、mixiの「お題に合わせて短編小説を書こう」コミュのお題「いいがかり」に参加。字数制限はコミュの仮規定2000字に準拠。