随筆/日記
公文書

'08.12.25  随筆

ノーミュージック・ノープロブレム
読書 
村上春樹「意味がなければスイングはない」文春文庫

 店頭で私がこの本を手にしたのは著者が村上春樹だからだが、それなりの逡巡があった。何せ私は音楽に興味がない。それでも買ったのは、まさか専門誌で専門家が書くような文章ではなかろうと考えたからだ。そして少々いやらしい話ではあるが、参考にしようとすら考えていた。

 本欄について、よく自転車趣味以外の方から「自転車の話はつまらないのであまり読みません」などと言われることがある。銃器やクルマでその様なコメントをされたことはなかったので意外である。銃の話題の方が余程専門用語を捲し立てているのだが。そんなこともあって、自転車ネタの際は他の話題を混ぜたり、何かの例え話を持ち出したりして書くことがあるが、そうだ、村上春樹なら興味のない人にも読ませる文章を書いているのではないか。参考にしようと、そういう下心があった。

 結果。そういう話ではないのだった。文章は言うまでもなく素敵な洗練されたものだったが、いかんせん興味は湧かない。本書を読んで私がスタン・ゲッツやプーランクを聴きたいと思わないのは、私の中には音楽に対して共鳴する何かが決定的に失われているためであって、それは村上春樹の静謐な筆致をもってしても決して補えないものなのだ。

 読み初めの内は、これはひょっとしてたとえばスニーカーについてのでっち上げエピソードを綴ったエッセイ(ああ、タイトルが思い出せない)の様な村上春樹一流のジョークで、シダー・ウォルトンもブライアン・ウィルソンも架空の音楽家というオチなのではないかと考えたのだが、そういうことは全然なくて、全くもって真っ当な音楽に対する深い愛と広い見識でもって綴られた文章だった。

 自転車に興味のない方が私の自転車ネタを楽しめないのは、私の自転車に対する愛や知識が足りないからか? いや、それは単に私の文章力が低いためだろう。すみません。


この冬最も気に入った夜景(?)。向かいのビルの工事現場。垂れ下がったアルミのダクトパイプが青白いライトで下から照らされていて何ともサイバーパンクな雰囲気。


訪店2度目のG外の店で意外や出会したグレンリベットの旧ボトル。保存用かと思いきや12年の方は開いていたので1杯いただいた。

本文と関係ないが、本日で四十二となった。メリークリスマス。仏教徒だけど。

'08.11.28  随筆 

ガード下と好みのタイプ

 勤め先近くに新しい酒場を見つけたので、覗きに寄った。

 イングリッシュパブ風のスタンドバーがいつの間にかガード下に出来ていた。CODではなくチケット制でオール500円。カウンターに若い娘2人でホールは30代白人男性1人。パブ風と思ったのは彼がいたためか。しかし言葉は片言でウイスキーは意外に詳しくない。あるいは頼む時の発音が悪かったか?

 珍しくドラフトにハートランドがあるのがPOPで分かったのでメニューも見ずに頼むと、珍しいですねと言われる。しかしモルトはバックバーの奥の列で、まぁあるだろうという銘柄を指名打ちする。メニューにはビールの他はカクテルしか載せておらずいまひとつ大丈夫かなとは思うが、後日男性バーテンに訊ねると、ズブロッカもイェーガーもフリーザー入りだという。分からないものだ。

 神田といえば通りの先には82があり、ここはとにかくちゃんとした酒がしかも安い。ところで、店長の枝里姉(この数日風邪で休んでいた)は美女だが、それ目的で通う訳ではなく、それに細身で整った鋭角的な顔立ちの美人はタイプではないんだよななどと言うと、某所で店主に笑われる。彼は私のシュミをよく知っているからだ。

 ちなみに彼のタイプはどんななのかと訊いてみると、では実例でと言って携帯で画像を出してきた。オフを家族と過ごす芸能人然とした女性のカットと、わざとらしく笑顔とポーズが決まったそれとは別の女性のカット。あくまでサンプルかと思い、思わず「何の画像?」と訊けばそれぞれ“本人”だと言う。厭味だなぁ。しかも物凄くイイオンナなのだ。

 ここで自分のタイプはね、と娘の写メでも出せば“でれでれパパ”な訳だが、私の携帯電話には特定の画像を入れっ放しにはなっていない。何ならPowerBookがあるしな。何ならって何だ?


某所ではもうお子さんが飾り付けに積極的でなくなったとのことだが、うちはまだ大喜びで飾り付けている。まあ、規模が小さいので労力が違うのだが(笑)。

'08.11.18  随筆

2軒、消えた

 その後の高田馬場の話。と言っても大した頻度ではないのだが。

 過日の記事には書いていないが、探索初日1軒目に入ったバーがある。雑居ビルの半地下で通路が明るく一見喫茶店風ではあるが、店の雰囲気は悪くないし店主はそれなり感じが良い。馬場のどの辺りに店があるかなどの話をしてくれたのだった。久しぶりに寄ると私のことは覚えており、「どうですか、良い店見つかりましたか?」が第一声だった。話す内に、実は年内で店を閉めることになったと聞く。開く時間が早く、回り始めには良い店なのに残念。馬場に通い始めてまだ日も浅いが、1軒店を失ってしまった。なくなる店なので詳細は書かないでおく。

 実はもう1軒通えなくなった店がある。と言っても、そこは閉店するわけではないし、念のため書いておくが私が出入り禁止になった訳でもない。

 バーテンが学生バイトというのがどうしても引っ掛かってはいたが、当初は感じの良い男の子だったのでこれも良しかと考えていた。しかし行く度に人が違う。確かに学生バイトではそうそう毎日は入れまい。私が当たっただけで6人はいる。そうなれば中にはちょっとと思う子もいる訳だ。ある子はカウンターの奥で他の子に今いる客についてのコメントをしていた。聞こえないと思っているのか構わないとでも言うのか。私はその手のマナー違反がとても我慢ならないたちなのだ。うっかり失敗というのとは違う。だから若くて綺麗な娘は嫌いなのだ。

 それとこの店、カウンターにはその時入っているバイトのプロフィールがメニューの様に出ている。これを見ればその子の得意な話題を出せて手早く仲良く話も出来る。毎日違う子が入っているならこれは有効だろう。でもこれ、何か逆じゃないか? それに乗って使うと逆に気が滅入る。ひとつ気になると次々気になってしまう。これも店の詳細は書かないでおく。

 結局、馴染みの居心地の良い店で呑み直してしまうのだった。やれやれ。

前回、「高田馬場散策」は随筆の10/30付けだった。<誰に対する案内だ?(苦笑)


読書 藤沢 周「紫の領分」集英社文庫(再読)

二重生活だなんて維持しうるだろうかと思うが、知り合いにそれを片側子持ちで為し得た人が居るので、事実は小説より〜なのか。それは本作品のテーマでも何でもなくて、ウィトゲンシュタインと雪、そして数学のはさみうち論法が…まあいいか。車窓から一瞬見える犬は、何かに吠えていたのではなかったのだろうなと、そう思った次第。


'08.11.7  随筆 

トライオンFR308

 鞄を替えた。

 今まで使っていた物がかなり傷んでいた。角近くの革が縫い目から数センチ裂け始め、埋め込まれた金属フレームがハンドル近くで折れている。どちらもメーカー送りで直せるのは知っているが、また半月ほど預けて1万超の修理費を支払うのも鬱陶しく思えて、それなら買い換えたほうがましだと考えたのだ。

 昔使っていたスパンフォーム地のポートフォリオは、表面が傷みやすく補修も出来ないので2年で替えていた。その後使ったアパレルブランドのブリーフケースはPCを持ち歩くにはヤワ過ぎて、やはり2年ほどで駄目になるのだった。

 確か35歳を過ぎた辺りだけど、何かのきっかけできちんとした革の鞄を持ちたいと思うようになり、だからと言って10万以上もする鞄は馬鹿らしい気もして、5万いくらのアクアスキュータムを買った(調べたら3年前だったが)。

 そして気付いたのは、2万の物は2年で駄目になるが、5万の物も、直せるというだけの違いでやはり2年で壊れるということだった。

 それでも気に入った鞄なので買い換えるにしても同じ物にしたかったところだが、なにせメーカーに緑色を欠番とされてしまったのでそれも叶わぬことになってしまった。

 と、いう訳で若干方向性を変えてこれにした。トライオンのFR308。何かライトウエイトのスポーツカーみたいな名称である。

 一見ナイロン地にも見えるが革の塊である。野球グラブと同素材だそうである。厚みがある割には柔らかい。側面が緑色になっており、ちょっと婦人用みたいにも見える。同じ緑色でも以前は敬遠していたライム系のグリーンだが、自転車ウェアで慣れてしまったせいか、この頃は結構好きなのである。サイズがやや小さいのだが、目をつぶることにした。

 ま、しばらくの間よろしく頼むよ。


ちなみにいつもの百貨店ではなく新宿ハンズで購入(税込26,250円)。


その後に寄った訳ではないが、何の気まぐれか花園神社大酉祭の一の酉前夜祭を覗いた。今年は三の酉まであるんだな。

読書 藤沢周「スミス海感傷」集英社文庫(再読)

ここに収録されている7本の短編は、芥川賞受賞作「ブエノスアイレス午前零時」を挟んだ時期の作品。もっとも、雰囲気が様々なのは、その事よりも掲載紙が多種だからと思われる。『銀座百点』に掲載の「Coffee and Cigarettes 3のトム・ウエイツについて」は特に藤沢ぽくないが、たまにはこういうのも良い。


読書 藤沢周「愛人」集英社文庫(再読)

再読月間と言っても藤沢周の文庫を全て読むわけではなく、予めこれとこれは飛ばそうと考えていた本もある。それが「藪の中で…[ポルノグラフィ]」と、この「愛人」だったのだが、うっかり途中まで読んでしまった。若い女に嵌って身を持ち崩す四十男の話、とだけ書くと身も蓋もないな。

 

'08.10.30  随筆 

高田馬場散策

 私にとっての高田馬場は乗換駅として通過するだけの駅で、ホームに降りるのもしばしば往路だけだったりする。帰路は歌舞伎町で一杯やって、西武新宿駅始発に乗って帰ることが多いからだ。

 しかし新宿は知っている店が多過ぎて、あまりすんなりとは通過できなかったりする。いつもこれではいかんと思い、乗換駅で呑めばもっと早く帰れるだろうと考えた。ロジックが何か変か。

 ともあれショットバーを探しに駅周辺を歩いてみた。

 高田馬場の表通りは歩道が狭い上に学生がとにかく多くて歩きにくい。なぜあんなに歩くのが遅いんだ? しかし意外に学生向けの店は少ない。地元向けが多いらしく酒場の多くは深夜までやっている様だった。

 ネット検索なりで探せば早くて確実なのだろうが、それでは私の流儀に反する。街の感じや、店名ロゴの書体や建て構え、行灯の具合などを眺めつつ、ふらりと飛び込む。これが適度にスリリングで愉しいのだ。

 今回はいくつか行き当たった店を挙げてみる。

「こくているnico」
山手線からいつも眺めている線路沿いの小路にある古いバー。八十幾つで引退した先代から引き継いだという店主は意外や同年代。丁寧にグラスを冷やすかと思えば器具を使わずカクテルを作ったりこれも意外。強面かと思いきや渚ようこを口ずさんでいたりもする。

「バーsaikai」
学生街にありながら、さかえ通りは風俗やラブホまであるのに1本裏が普通の住宅地という不思議な商店街。ここで世襲二代目のマダムが切り盛りするこの店は、早稲田の学生をバーテンに立たせる。これが結構好青年。先輩後輩の引き継ぎでずっと繋がっているという。

「BAR blue moon」
全くの住宅地の中にあるのに本格派。どこぞの店上がりの方かと思えば元々は趣味が昂じた店とかで5年目を迎える。深夜は神楽坂から流れてくる編集者で賑わうとか。緩めた氷を包丁で整えるバーテンを久しぶりに見た。


山手線沿い土手下の暗くて狭い裏路地。しかも行き止まり。

駅側から見たさかえ通り入り口。奥には大学や専門学校があるのだが…


あ、どのポイントがどの店か書いてないや(苦笑)。ま、本文読めばわかるでしょ。

読書
藤原和博、重松清、橋本治 「人生の教科書[情報編集力をつける国語]」ちくま文庫

表題だけなら手に取らない感じか。コミュニケーションツールとしての日本語力=情報編集力を鍛える教科書、ということだが、教材が「エイジ」や「ワニとハブとひょうたん池で」だなんて、これで実際に半年間授業を受けたという中学生達が羨ましい。


'08.10.18  随筆

バナナ屋の親父

 朝の活気が一段落する時間。会社まで数十メートルのところであらかじめポケットに投げ込んであった100円玉を取り出す。“バナナ屋”の店頭のカゴにはいつもの様に10種類くらいのペットボトルが並んでいる。その中の一つを掴み店に入る。

 先客が1人。チャコールグレーのジャケットに地味だが高級そうなシャツを着た五十絡みの男。やけに無邪気な話し方で、店の親父に柿が喰いたいんだと話し掛けている。二日酔いか同志よ。親父が相変わらず聞き取りにくい声で返す。「硬いのなら…。柔らかいのなら柚子柿。そこの、2段目の」。

 選択肢があるのか。親父、本当に果物屋だったんだな。私はてっきり、アリバイ代わりに店頭にバナナだけ並べている単なるビルオーナーの暇つぶしだと思っていた。だから“バナナ屋”と呼んでいる。6坪程度の店の奥には、これも言い訳程度にカップラーメンやスナック菓子が並んでおり、棚のスカスカさ加減は大分前に訪れた北京のデパートの香水売り場を思い起こさせる。その果物屋の屋号と同じ名前が8階建てのビルにも付いている。

 私はこの店で飲み物しか買ったことがない。500mlペットのドリンクのほとんどが100円。結構な種類があるが、2/3位が100円。商売する気があるのか? 呑み過ぎた日の翌朝は、私は決まってここでスポーツドリンクを買う。だから顔くらい覚えられていそうなものだが、この親父の愛想を聞いたことはないし、それどころか「ありがとうございます」とすら言われた記憶もない。商売する気があるのか?

 しかし「柚子柿」ってどんな柿だったか。もとより果物の品種銘柄なぞほとんど関心のない私なのだが、調べてそれは柚子風味の干し柿のことだと知る。…全然果物じゃないじゃないか。菓子だろ菓子。確かに「柿が喰いたい」という客のリクエストには答えてはいる。答えてはいるが、それは果物屋の答えなのか? それがホスピタリティなのか? 私には分からない。


今秋はカメムシ大発生の我が家だが、こちらはテラスの物干しに卵生み付け中のカマキリ。まだお尻が繋がっている。発泡コンクリの壁面は毎年カマキリの卵が増えていくのだが、金属部にはやめてくれ…。


そんな訳で不法滞留撤去させていただきました。珍しいカマキリ卵(卵鞘:ランショウ)の裏面。希望者には差し上げますが、屋外保管をお薦めします。


読書 藤沢 周「雪闇」河出文庫(再読)

作品毎に全く異なる主人公の職業描写が異常なほどリアルな藤沢だが、方言に関しては自らの故郷・新潟のものであることがほとんどである。その新潟が舞台となる本作は、他の藤沢作品とはなにやら雰囲気が異なる。狂気の現実から破滅の向こうへ行ってしまうことが多いのだが、本作では故郷愛と共に希望の様なものすら見える。
藤沢周月間は、河出文庫読破で一時休止。3冊ほど買い貯めてしまったのでそちらを先に読もうかなと。


'08.10.14  随筆

運動会、とか

 三連休初日は長女の運動会の予定だったが、朝の雨のために日曜日にずれた。そのこと自体はまあいいのだが、日曜までの間に次女の卒園関係実行委員で揉め事があったため、うんざり気分で三連休を過ごすこととなってしまった。勘弁してくれよ。

 さて運動会など全校の親が集まる場所では、同級生の親よりも、学童クラブで一緒だった親達の方が顔も分かるし挨拶を交わしやすい。しかし顔は知っていて挨拶を交わせども誰だか思い出せない方もいて、夫婦で「あれ誰だっけ」とか言っていた。

 親よりも子供の方が顔と名前が一致する。子供の方は同級生の親の顔なぞあまり覚えられないものかと思っていたが、意外にそうでもないらしい。

 ところで、今年5月「学校公開日」の話の時に書いた、いちいち喧嘩を売ってくる子と長女はその後仲良くやっており、最近もうちに連れてきて2人で庭でDSをやっていた。この日も見かけたので手を振ると手を振り返してきた。あの時何もしなくてもこうなったかどうかはわからないが、ともあれ良かった。

 プログラムには保護者参加の綱引きなどもあったのだが、保育園の件がありとても楽しく行事に参加できる気分ではなかったので応援側に回る。知った顔に「何だよ〜参加しないの?」と文句を言われる。

 帰宅後砂埃だらけの次女とシャワーを浴びて、陽もまだあるので走りに出ることにした。しかし自転車も、クサクサ気分の気晴らしで走るものだから、我ながら刺々しいのが分かる。今抜かなくても良かったかなとか、あそこは飛ばし過ぎたなとか。こんな時に目撃されていたら「何か厭な感じだな」と思われてしまっただろう、とか想像してしまう辺りが下向き。

 実は、そもそもが卒園委員の件以前にケチが付いた週末だったのだが、その話は改めてジャンル[mac&other]で!!<またかApple


無難に遠景(苦笑)。我が娘と思えぬほど踊りが上手い。その上手足が長いので目立つ。以上親馬鹿でした。


読書 藤沢 周「さだめ」河出文庫(再読)

 話は帯にある通り「AVスカウトマンと謎の女、運命の出会い」。藤沢得意の狂気のあちらへ逝ってしまう中年男の話、とだけ書いてしまうとあっさりしたものだが、中編の割に意外にディティールがボリュームをもって記憶に残らないのはなぜか。単純な問題として、私が新人AV嬢祐子の魅力に今ひとつしっくり来なかったからかも。
 ところで作品には関係なく引っ掛かったところが2つ。
 いつかこの作品を映画化したいと行定勲監督(「世界の中心で、愛をさけぶ」監督兼脚本、「スカイ・クロラ」脚本監修)が解説に書いているが、結局映画化はされていない模様。この書き様だと文庫本発売と同時/?公開かと勘違いしそうな勢いなんだが。
 それと、これまでイラストだった藤沢の河出文庫表紙がこの本から写真になる。モデルが写っており、祐子役かとここで映画化の勘違いを起こしたのだが、笠井爾示による雰囲気のあるこの写真、モデルが誰だか調べても全く分からない。それとも有名な人なのか?(苦笑)


'08.10.9  随筆

読み聞かせ会、中止

 午前6時30分、電話が鳴る。

 目覚ましかと一瞬思うが勿論音が違う。通常こんな時間に電話を掛けてくる人間はいないのだが、しかし今日は思い当たることがある。

 誰が、というのは予想と違ったが、用件は同じだった。娘のクラスの保護者委員ではなく担任の教師からの電話だったが、用件は、今週末の運動会に備えての練習のため、今朝に予定されていた保護者による読み聞かせ会は中止ということだった。

 電話を取った妻が話しながら用件を私に伝えると、「なんだそれっ」と声が出る。寝起きの悪い娘が珍しくしっかりと目を覚まして話を聞いていたが、顔を顰めてひそひそ声で「やめてよ」と私に言う。聞こえるように言ったのが分かっているのだろう。

 保護者による読み聞かせ会の趣旨に異を唱えるつもりはない。朝の15分ほどの時間、持ち回りで読み聞かせをする。誰のお母さんだろう。どんなお話だろう。子供達は期待にそわそわしながらこのイベントを待っているだろう。

 しかし、全員参加でやる様な行事なのか? 有志を募れば良い話なのではないか? 少なくとも共働き家庭の親が、前日までに仕事の調整を細々として、数日前に会社に遅刻届を出してまで行う必要のあることとは到底思えない。“朝の時間を自分の裁量一つで調整できる立場の人間”だけが参加すればいいだろう。そうでないなら推進者はいっそのこと「お父さんの読み聞かせ会」とでもして企画したらどうか。私が発案するつもりは全くない。そんな馬鹿なことを言い出せば吊し上げ確定だろう。しかし現実にはそれと同等の発案が罷り通っているのである。

 そもそもが、小4ともなれば大抵の文字は読めるのだ。文章の理解度は、聞くと読むでは大違いである。しかも素人の他人が読み聞かせかよ。

 そこへのアンチテーゼも含め、下記の本を選んだ。分量が少ないとはいえ難しい文章であるが、万全の練習で、間違えないのは当然として抑揚や間合いを含め自分なりに及第レベルまで持って行っていた。

 全くリソースの無駄遣いなんだよ。

 
読書 坂口安吾「風と光と二十歳の私と」(抜粋版)
齋藤孝「理想の国語教科書」文藝春秋 より

練習の期間を考えると「今週の」ではないんだが。ちなみに本としては再読になる。一昨年の読み聞かせ会では太宰治の「走れメロス」を読んだ。


'08.10.8  随筆

蕎麦

 ついこの間まで、なぜか鴨セイロばかりが無性に食べたくなっていたが、その名残でか今も何かというとつい蕎麦屋に寄ってしまう。喰いたいのは鴨でなくてもやはりセイロなのだが、深夜にそれだけも何かなと思い酒を頼む。さすがにビールは合わないから焼酎か日本酒。しかしこれが、蕎麦が思いの外早く茹で上がり、半分も呑み進まないうちにセイロは出てきてしまう。どうにも格好が付かない。

 「つまみも頼まず呑むからだよ」

 と妻が呆れた様に言う。藤沢周、ではなくて藤沢周平や池波正太郎をよく読んでいる時代物が好きな妻からすれば、無様な蕎麦の喰い方だろう。「蕎麦を手繰る」だなんて粋なものではない。

 辛口の日本酒に、板わさ? いやカマボコ好きじゃないしな。ぬき(蕎麦抜きの汁だけ)で掻き揚げなんて辺りなら良いが、これではその後に蕎麦を喰わない気がする。

 しかしこの歳で馴染みのない作法を実践するのも面倒だしと少し思う。ついこの間からモルトを呑み始めた身としては実感として。

 深夜の蕎麦屋はやめるか。

 「だから、早く帰って来なよ」

 このところ昼飯も、考えるのが面倒になると決まって蕎麦かうどんという案配である。以前にも書いたが、食べ物にあまり執着のない私は、昼に何を食べるか全然決まらないことがある。

 ところで深夜に蕎麦屋と言うと、今までは立ち喰いだった。歌舞伎町で“遅い時間”まで呑むとたいがい職安通りの立ち喰いに寄る。だもので、深夜番のおばちゃんにはすっかり顔を覚えられている。立ち寄るのが“酷い時間”だと「遅いねぇ。今日は休みかい」と言われたりするのだ。この店で呑めれば適当に帰れるんだけど、チェーンの立ち喰い蕎麦屋では無理な話か。そういう話ではなくて?

 随分呑む割には私がそれほど太らないのは、自転車のおかげと言うより、元々空酒が多くあまり呑みながらは食べないから。しかしこの蕎麦癖が付いてひと月余り経ち、胴回りが少々気になるのであった。

 
読書 藤沢 周「刺青」河出文庫(再読)

藤沢作品ほど嗅覚を刺激する小説はないと思うが、この作品で特に強くそれを感じた。自分の読んだ順、というのはあっさりやめて、出版社別・出版順ということにしたんだが、それにしても“藤沢周月間”そろそろ辛くなってきましたよ(苦笑)。


'08.10.2  随筆

靴と時間潰し

 待たされた得意先に恐縮されると、「時間を潰すのも営業の仕事ですから」とか言ったりする。

 ある人は「ほう」という顔をしてからニヤリとし、ある人は「またぁ」とだけ言う。何かのハウツー本に書かれていた言葉というわけでもないので(そもそもそんな物は読まない)、どちらかと言えば本心である。営業トークだが、そういう意味では心はこもっているのである。多分。

 その日は伊勢丹の紳士靴売り場にいた。その時間潰しは40分程で結実したが、こういう時に困るのは、当たり前だが大きな買い物は出来ないということか。靴売り場にいながら間抜けな話だが。

 その時履いていた靴は、全体は大してくたびれてもいないのに爪先近くの縫い目辺りに小さく裂け目が入っていた。ここは修理不能だろう。そこで、靴を買い、古い靴は破棄して貰うよう頼んだ。スマートな買い物だが、いつも買う靴とはいえ足に馴染むまでは歩きにくく、歩き方の方は何ともスマートではなくなった。

 さて用事も済み、そのまま帰ればボードに書いた時間通り。もっとも、帰っても特に急ぎでやることはない。もう1人待って雑談でもしていくかと、得意先の入っている駅ビルで少し時間を潰すことにした。

 自分が靴を買ったばかりのためか、他人の靴にばかり目がいく。いや、椅子に掛けて本を読んでいて視点が低かったためかも知れない。

 そのフロアの客層よりだいぶ若いカップルが、何やら大荷物を抱えて買い物をしていた。男に寄り添ってヨタヨタ歩く女がやけに初々しく見えたが、よくよく見るとヨタヨタには理由があった。女は薄紫のトップスに合わせてか薄紫の靴を履いていたが、サイズが明らかに合っていない。その靴でそんなに買い物をして電車で帰るのは辛かろうよと思うが、見知らぬ2人がタクシーに乗るかどうかに気をやむのも馬鹿馬鹿しい気がしてやめにした。

 気付くと予定の時間をだいぶ過ぎており、時間を潰し過ぎたことを知る。


本文とは関係なくて、これは娘の靴(ピアノ発表会用)。しかし24cmか…。


読書 藤沢 周「サイゴン・ピックアップ」河出文庫(再読)

収録の「サイゴン・ピックアップ」と「白ナイル」「ベナレス・クロス」は、時系列上は長編ではなく続き物の短編。“感情ではなく状況”が藤沢作品とすれば、禅寺というのはお誂え向きの舞台ではないか。しかしさ、警策(きょうさく)くらいルビ振った方が良いよな。仏教識者ばかりが読む訳でなし。


'08.9.21  随筆 

ビデオカメラ

 土曜日、快晴。週間予報をすっかり裏切っての台風一過で、次女もんちゃんは保育園最後の運動会を迎えることが出来た。

 無事の開催は嬉しいが、しかしこういう行事があると毎度負担になるのが撮影である。スチルはまだ良いとして、動画を撮るのが本当にストレスなのである。保育園辺りの年齢だと全ての世帯がデジカメとビデオカメラ持参の参加と言って過言ではないが、他の人達はどうなんだろう。

 自分は体質が動画向きじゃないんだと思う。具体的には分からない進行内容を想像しながら撮影ポイントを決めて、構図を考える。必要な部分の前後を余分に撮る必要もあるし、ピアノの発表会と違って位置が変わり続けるからパンやらズームやら適宜行わないとならない。これ、手持ちで出来るものじゃないよね。で、また、安物の三脚は各部の動きが酷いし、それでなくてもぎりぎりのスペースには三脚を立てる余裕がない場合も多い。カメラ安定システム(身体に固定して振動などを吸収するあれ)が欲しいくらいだが、保育園の運動会ではいかにも馬鹿っぽいし、そもそも家庭用ビデオカメラ向けの製品はないだろう。

 うんざり。もうこんなのさ、専業者入れて撮って貰えば良いじゃないかと思ってしまう。自分の子供が写らないという話もあるが、自分の子供が入ることに注力して撮ると全体像が押さえられないから、ビデオを見返したときに進行が分からない。

 文句垂れ垂れだがもう一つ、やらねばならないことがある。親と子供の組み合わせの確認。親子で揃っていて、しかも名前明示という機会は少ない。顔は知っているのに名前が分からない親。親の名字は分かっても、誰ちゃんの親だかわからない。見たことないけどよく聞く名前。こういうのは運動会でないと確認できない。

 もっとも、それこそビデオにでも撮らないとすぐに忘れてしまうんだけどね。


妻が私のFinePix S602で撮ったもんちゃん。旧いデジカメでも可愛いものは可愛く写っている。


興味のない物に10万円使うのもまたストレス。今まで使っていたVictor GR-DVLというMiniDVのビデオカメラがかなり不調となっていたので、2日ほど悩んで前日にこのSONY HDR-SR11というHD/MSのビデオカメラを購入。

読書 藤沢周 月間

前回の「陽炎の。」を読み、今月は「藤沢周再読月間」に決定。
ってあと1週間しかないか。


'08.9.18  随筆 

グーグルマップ/ブログ通信簿

 巷ではある意味定着しつつあるgoogleストリートビューだが、あれには便利な面もないではない。しかし「ないではない」程度のことによくもあれだけの手間を掛けたものだと思う。それともその程度に感じている人は少なくて、物凄く便利に思う人の方がマジョリティなのだろうか。興信所や空き巣が多いって話じゃないよな。

 先日、娘が友だちの家に自転車を置いてきて、私が取りに行くことになった。今時の小学校は住所録がない。昔と違って個人宅のほとんどは電話番号から住所を調べられない。結局は妻が個々に交換したであろう携帯のアドレスデータで分かったのだが、住宅地というのは逆に番地だけではわかりにくい場合もある。そこで番地からストリートビューを見ると「あのアパートか」となった。

 ところで、ストリートビューに気を取られていたが、通常の航空写真もいつの間にか以前より大きくなっていることに気が付いた。なんだこれ、空き巣調べ放題だろ。以前は衛星写真というと、国土交通省が実験的に5年置き位に公開しているものを不親切なインターフェイスを介して落としていくしかなかった。でもあれだってつい2、3年前のことなのに。これも米帝のテロ対策インフラの余録(あるいは宣伝)という訳か。

 話変わってあちこちで話題の「ブログ通信簿」だが、しばらく私には無縁だった。というのも本欄のあるアサヒネットのブログサービス「アサブロ」は更新pingを送らない仕様になっているからだ。こういう時に、実はアサブロだと凄く損をしているんじゃないかと思ったりする。しかしping発信の無料サービスを見つけて実行後、参加できるようになった。

 結果。ありがとう解析エンジン。主張少なめの私の穏やかさを見抜くとはなかなかに鋭い。私を定年間近と見たのも、世俗の欲から遠いところにある私の達観した態度からであろう。こういう賢い奴とは一緒に宇宙には行きたくないね。

特別公開・小隊司令部全景

ちなみに光学迷彩が掛かっているためかストリートビューには写っていなかった。

読書 藤沢 周「陽炎の。」文春文庫(再読)

なぜまたこれを引っ張り出したかと言えば、馴染みの酒場の店主が「藤沢周でも読むわや」と言い出したからだ。私にとっての1冊目がこの本で、それだけに印象にも強く残っている。'02年6月に本欄に出ているが、当時は一言感想は入れていなかった。表題作「陽炎の。」を読んだ時は主人公同様失職していた頃の自分を再び思い出した。自分は不祥事で辞めたわけではなかったが。また酒呑み故に「事情聴取」には特に思い入れがあり、'05年10月に再読して、私には珍しく感想だけで1回記事を書いていた。


'08.9.12  随筆 

眼鏡

 観光地などで、服装の割にはすこし派手な眼鏡を掛けている人を見掛けると、韓国語を話していることが多い様に思う。韓国は眼鏡装着率が高く生産数も多い。また、日本国内に増えている安価なレンズセットの眼鏡の多くが韓国製品だという。

 その手の眼鏡は一度流行った高級ブランド品のテイストを模した物が多いのだと、顔馴染みになった眼鏡屋の店員から聞いたことがある。眼鏡のトレンドはよく知らないので、そんなものかなと思うだけだが、確かにその手の店では、似たデザインの物が近い時期にあちこちで見られたりすることがある。

 私は掛け替え用にいくつも持つので、あまり高額な物は買わない。いや、安くなったのでいくつも持てるようになったのだけど。高くてもせいぜい2万円程度で、昔はその倍や3倍はした。

 主にオン・オフの気分変え用なので、使い分けは明確で見た目も異なる。オン用は、人当たりが良く厭味のない知的な感じの物。オフ用は遊びのある少しすかしたデザインで、大抵色付きのレンズにする。

 残念なのは、安物のためかあまり耐久性は高くないこと。メッキや塗装の剥げや変色は割に多いし、プラ部分もヒビが入りやすい様に思う。例によって自分で直せる範囲は直すが、きりがないし安価でもあるので新たに買ってしまう。

 この手の眼鏡が普及したためか、オンタイムのはずなのにやや奇抜なデザインの眼鏡を掛けている人がしばしば見掛けられる様になった。私はそれでもまあ許されるような業種だが、あの人達は大丈夫なのだろうかと人ごとながら気になる。

 先日オフ用の物を1本作った。ポイントフレームでテンプルが太い物は滅多にない。前に利用したことのある店の姉妹店だったのでデータもそのまま使えた。レンズの色は同じにしたかったので「1本前が色付きだったと思うが」と話すと、「お客様は全部色付きでお作りになっています」と言われた。あちこちで作るので忘れてしまうのだが、思わず苦笑いである。


まだ馴染んでないが、結構気に入っている。この手の眼鏡にしてはやや高めの21,000円(カラーレンズの場合)。


過半数カラーレンズじゃん(苦笑)。
iBookのシステムが大クラッシュ。起動、そして何とかmail使用可能まで漕ぎ着けるも、safariが立ち上がらん。何とか仕事は出来る様にしたが…面倒くさい。

読書 平 安寿子「恋はさじ加減」新潮文庫

料理を材料にした恋愛短編集。タイトルからは恋愛術指南的印象を受けるがそうではなく、逆に上手いさじ加減はできないながらもそれぞれのハッピーエンドを迎えるストーリーは、安心して読めるいつもの平安寿子である。


'08.9.6  随筆 

耳鼻科・皮膚科・整形外科

 このところ通院づいている。

 私は季節の変わり目辺りによく喉の調子を悪くする。咳が止まらず気管支炎の様になる。耳鼻科に行き、1週間も薬を飲めば大抵治るのだが、この間は当然喫煙はできない。症状が激しい場合は抗生剤も出るので本当は飲酒も控えるべきだろうが、こちらはいつも通りである。「季節の変わり目」というのは実は後付けで、馴染みの酒場で続けて灰皿を断ると「年3回くらいそういう時期がありますね」と言われ、それくらいのペースではないかと考えたのである。

 これに加えて件の水疣と、それからここ3ヶ月ばかり調子の悪いところがある。

 左手人差し指が、物をつまみ上げる方向に負荷が掛かると痛む。そして左足薬指だけ触っても感触がない。整形外科で診て貰うと、どちらも明確な原因が見当たらないそうだ。レントゲンにも異常は写っていない。骨は正常だし変な影も見当たらない。レーザーで暖めたり電磁治療器に掛けてほぐしたりしたが結構時間が掛かりそうである。ビタミン剤2週間分と合わせて初診3,200円。やれやれ。

 特にきっかけらしき出来事は記憶にないが、3ヶ月ほど前というとちょうど鞄を持つ手を意識的に左に移した時期なので、症状が左側に集中していることからもこれが遠因となっているのではないか。持ち手を変えた理由である右靱帯の不調も左にして良くなった訳ではないので、当面右に戻すかと考えた。しかしこれがなにか上手くいかない。鞄を落としそうになったり自動改札で引っ掛かりそうになったりで煩わしい。

 土曜日はどこの病院も混むので、地元で通院している耳鼻科と皮膚科へは届けを出して平日に行くことにした。どちらも空いておりストレスなく受診が出来た。

 ひとつ困り事がある。件の皮膚科、土曜日以外は女医なのである。何せ症状は太腿前部から内側に掛けてと腹である。新品の下着を引っ張り出し、むだ毛の始末までしている次第である。


'08.9.2  随筆 

死に至る疑惑・後編

 土日は夏休み最後ということもあり家族行事があったのだが、笑顔も元気も出ない。食欲もない。表情は凍てついたままで思考も間欠気味になる。

 もし本当に感染していたら、これから家族とどう接したらいいんだろう。支えて欲しいが一緒にいてはいけない様にも思う。前にはなかったはずの場所に水疣を発見すると、その数だけ死に近づいていく気がする。

 下向きのことばかり考えていると本当にそちらに向かってしまいそうなので、無理に前向きに考える。

 罹っていなかったということも想定してみる。そうしたらずっと黙っているのが良いか。しかしこの2日間のぐるぐるをそのまま心に留めてしまうのは、それはそれで辛い。いっそネタにして笑い飛ばすか。しかしそもそも妻は笑うだろうか。思い当たることがあるから悩んだのでしょうとまで言われたら面倒なことになる。その事を置いておくとしても、あまり楽天的でも足をすくわれそうだ。

 罹っていたとしても前向きにならなければいけない。1人抱え込んでいたら苦しいので新しくそれ関係のブログでも立ち上げるかとか。仲間を増やして情報交換しようとか。

 とにかくすぐにでも検査を受けないとならないので情報を集め、月曜の午前中に有料の即日検査を受けることにした。

 結果として、ここにこう書いているのだから、陰性(感染無し)だった。

 検査を受けた病院の医師が慣れたとても感じの良い人だったのは特に救いであった。皮膚科医はそういう可能性も提示しなければならないものなのであろう。実際罹っていて1軒目の皮膚科だけで止めていたら大変なことになったところだ。いずれにしても水疣はただの水疣だったのである。

 珍しく(?)シリアスなお話にお付き合いいただきありがとう。

 で、こんな話にもしっかりとオチがある。厄は周りの人に及ぶというあれだが、この週末に我がボス(51歳)はフットサルで骨折をした。デザイナーが右手の指3本を折って全治1ヶ月である。…それはそれで自分にも厄災となっている気もするが。


'08.9.1  随筆 

死に至る疑惑・前編

 付き合いの長い印刷会社のKさんと駅まで歩く。うちのボスの歳の話から私の歳の話になり、「じゃあSさん今年本厄じゃないですか」となる。そこから、厄年は自分だけとは限らず身近な人にも関わってきて、自分は子供が大火傷しましたなどという話になったが、こちらは全く意識の外にあったことを意識することになり、厭な話を聞いたなぁと思った。

 娘に何かあるくらいなら自分にあった方が良いが、とすると今罹っている皮膚病がそれならば、それで済むならそれに越したことはないなと考える。といっても治療の難しい難病などではなく、通常幼児の時に罹って免疫が出来て、大人は罹らないとされている水疣(みずいぼ)である。

 しかし1軒目の皮膚科は、処方した塗り薬で良くならなければもっと大きい皮膚科のある病院で診て貰った方が良い、などと言う。その時は随分自信なさげな医者だと思った。症状はしばらく経っても変わらないどころか増えたので、彼の言葉に従うというよりそこが信用できずに、いつも混んでいて通いにくいが地元では有名な名医へ無理して行った。

 その後、幾つかは塗り薬で消えたが、それでも少しずつ増えている。通院2回目の先週土曜に医者は一拍置いてこんなことを言った。

 「大人の場合、後はH●V感染で免疫が落ちているという可能性も考えられますが、検査されたことは?」

 目の前が暗くなるという表現があるが、実際にはそれほど暗くはならないんだなと思った。

 検査はだいぶ前にしたことがあるんだが。それ以前に、思い当たる様なこと自体がない。とはいえ10年20年潜伏したとしたら…などなど、ぐるぐると下向きスパイラルの思考に陥っていった。1軒目の医者の、あの怪訝な態度はこれによるものだったのか。


続く。