随筆/日記
公文書

'11.12.25  随筆 

リペアークリスマス
 先々週の冷蔵庫に続き今度は洗濯機が壊れた。家の建て替え時に買った物だからほぼ10年。家電品としては寿命というタイミングかも知れないが、それで納得がいく訳でもない。

 冷蔵庫の時はコンプレッサーが逝っており買い換えとなった。今回の洗濯機は取説にない「F1」というエラーコードを返してきたので調べたところ「水位センサー異常」だった。私に電子部品の修理は出来ないが、交換すれば済むなら大した価格の物でもあるまい。日立製NW-7AX「白い約束」という製品だ。何の約束だ。

 電話の翌日午前中に日立のサービス・センターから人が来た。妻は、最悪の場合は買い換えと半ばウンザリ諦めていた様だが、やはりセンサーの問題ということだった。しかしそれを本体と繋ぐハーネス(配線)部分にも異常があった場合は保守部品としての維持期間を過ぎており直せないという。尤もその場合は…ハンダで繋いじまうか、ジャンクボックスから電動ガン用とかの適当なソケットを持ってきてしまえば良いと私は考えていた。

 いずれにしてもまた自分でバラさねばならなくなるかも知れないので、作業にずっと立ち会った。黙ってみていられては厭だろうなと思ったので二三言葉を交わすうちにうち解けて、最後はハーネス駄目でもハンダで留めますとか(ほらぁ!)、蛇口とのジョイントは今もっと良い奴がDIY屋にあるから器用なら買ってきて替えた方が良いという話になった。ともかく無事、修理は完了。

 しかし翌日、私は別の物を修理しなければならなかった。サンタからのプレゼントを組み立て中、もんちゃんが早速部品を折ってしまったのだ。力の掛かるプラパーツ。ドリルで穴を開けて補強の金属芯を埋めて繋ぐ。どこのお父さんでも出来る訳じゃないからねと言っても分からないだろうなぁ。

 そんな3連休だった。

 いや、初日は親子4人でミュージカル観に行き、3日目は私の誕生日だったんだけどさ。

センサーはコントロールパネル下ではなく右袖部分にあった。

回路を埋めるエポキシ樹脂が劣化。端子は緑青が吹いていた。

もんちゃん建築なう。

これですよこれ。

さすがの珍々亭もイブに3時締めはなかったな。隣の燃料屋の「大売出し油」ノボリがマッチしていて笑う。

念願の店食べ。珍々亭の油そば並600円。古典であり王道である。

タレで温めておいたチャーシューを発掘。尤も食べ進むのが早過ぎたか、ちょっとパサつき気味。

'11.12.12  随筆 

Alley閉店と不思議な縁
 このところの私は以前の様には呑み歩く事もなく、多くの店に不義理をしている訳だが、ひょんな事で馴染みの店の閉店を知った。mixiで足跡のあった見知らぬ人が共通の酒場のコミュに入っているのに気付き、久しぶりにそのコミュを訪ねた。そして神田Dining Bar Alleyが今年の9月に閉まっていたのを知った。経緯はオーナー“きちえもん”さんのブログから何となく察するだけで、ともあれただ残念に思った。

 なくなる店があれば新たに開かれる店もある。店主サキちゃんが辞めてすっかり通わなくなったStand Bar Breakだが、そこにいたノリ君が同じ神田で店を持つという。BreakのオーナーKさんの会社が入っているビルの1Fだという。開店時期も正しい店名もよく分かっていなかったが、ある晩、寄ってみるかと電話で場所を訊いて向かった。

 神田と言っても勤め先と反対側の繁華街は勝手を知らない。しかし聞き覚えのある目標を繋いで店への道順を訊くと、これはちょっと厭な感じがした。

 果たしてそこはAlleyの場所だった。完全な居抜きで、カウンターもバックバーも馴染みの物だった。

 非常に妙な気持ちで酒を呑むことになったので、ノリ君に経緯を話した。すると彼は、前の方が残された物が幾つかありましたが、どうしても処分出来ないものがあるんですと言って奥から小さな箱を取り出してきた。中にはグレンリベットのロゴ入りグラスと小さなインスタントの写真。グラスにはサインが書かれ、写真には年配の白人男性がサインするのを見守るきちえもんさんとご主人N君が写っていた。連絡はmixi経由で取れるので、経緯上預かることにした。

 棄てていった訳でもないだろうが、やはり複雑な想いを抱くであろう。送っても処分しても構わないがとメールをすると、迷惑でなければバーの世界に戻って来るまで預かって貰えないかという返信だった。

 少し考えて、お引き受けすることにした。

'11.12.9  随筆 

綺麗な大人の女性
 「美魔女」という言葉を最近よく耳にする。これは光文社『美STORY』誌による造語で、「才色兼備の35歳以上の女性を指す。“魔法をかけているかの様に美しい”ところからきている」(同誌編集者談)のだそうだが、世間、特に浅薄なTV番組などでは単に「年齢を感じさせない若さを保っている大人の女性」ということで使っている事が多い。中には「男に見えない女装」とかそういうのと同列の扱いになっていたりして、まあそんなものだろうとは思うが。

 改めて考えると「美魔女」という言葉自体は、実のところ年齢は表していないが、確かに若い女のイメージはない。美に執着する魔女、例えば白雪姫の王妃辺りを想起するからかではないかと考える。もっとも、白雪姫を扱った映画「スノーホワイト(原題:Snow White & the Huntsman)」(来春公開)のシャーリーズ・セロンだったらお近づきになりたいかもしれない(さして好みでもないくせに)。

 魔女の定義なんてことを書き始めると、「魔法少女が成長したら魔女になるんだから若くないに決まってるだろう」とか面倒臭い事を言い始める人が周りに沢山いそう(笑)なのでそっち方面の話はナシとさせていただく。

 大体、「美魔女」というのは言葉自体が美しくない。それに実際とは異なる物に見せ掛けてやろうかという意図を感じもする。

 美女自体を否定する気は全くない。わざわざ美しい異性を嫌う理由などない。しかし年齢不相応な物理的綺麗さは、むしろ大人には必要ないのではないか。異様に肌がすべすべな年配女性を希に見掛けるが、違和感がありそれこそ魔女の様である。発信元の雑誌でも、相応の歳だからこそ内面から滲む美しさが出るのだという主旨のことを謳っている。

 言われている当人達にしてみれば、それこそどうでも良い事なのだろうが、美しいもの程意外にくだらない事でスポイルされるものである。


なぜか例のイラスト(笑)。しかも着彩してるし。でもこの人はアニメの設定上は35歳どころか22歳なんだよね。声は落ち着いていてセクシーなんだけどなぁ。ちなみに声優の塚田恵美子さんは御歳62歳なんだが。

読書 山崎ナオコーラ「『ジューシー』ってなんですか?」集英社文庫

得意先と話をしてると「年収が倍も違う奴に5万円高いとか安いとか言われたくねーな」と思うこととしばしばな私なのだが、お話ししてくるのが営業の仕事だとか考えなくても会話してくる毎日なのだ。別にそういう話でもないけど。


'11.12.2  随筆 

2011.12.01 21:40 - 2011.12.02 07:57
 珍しく寄り道もせず真っ直ぐ帰宅した。反抗期の長女がまたやらかしていないかが気懸かりで憂鬱なのではあるが、寄り道がそれを避けるためと見られてはならないと考えているので、憂鬱であればあるほど、努めて真っ直ぐ帰るのだった。

 しかし帰宅すると全員揃って皆で普通にテレビを見ていた。

 長女はコスプレ制服みたいな格好をしてるので何かなと思ったら、制服のYシャツに、私服のカーディガンとチェックのミニスカートだった。いいからちゃんと着替えなさい。家に帰っても制服を着ているので「お前はドカベンか」と言ったが、分かって貰えなかった。まあそういうお父さんの部屋着が軍服なのも何だという話ではあるが。

 試験の結果をひた隠ししつつ、厳しい時間制限で調べ物とメールチェックだからとPCを弄る娘。しかしこれはと見に行くと…ブログ更新していやがった。しかしその内容は考えさせられるものだった。しかも妻の不機嫌の理由も分かった。

 娘たちの掛かっている皮膚科が酷いのである。イボ焼きを半泣きでびびる次女には「これ以上騒いだら帰って貰う」と言い放ち、定期的に通っていなかった長女には「ぶっちゃけ、通って来なけりゃ治らないから(44歳の原口調ママ)」と厭味とも脅しとも取れることを言う。うちの近くには皮膚科の選択肢はないのか!? ちなみにこいつがいつぞやのHIV思い込み誤診未遂野郎である。

 なんて事に憤りを覚えるうちに、もう12時は過ぎており。あと2杯くらい呑んで帰ろうかな。じゃねぇや、寝ようかな。と間違えるほどには酔っていないのだが、「最後の1杯はフィディックでいいよね?」と打とうとしたら「最期の」って変換されて焦った。ATOKが酔ってるのか?

 このところあまり長く寝られない。これでまた明け方に目が覚めて、延々厭な夢見たりするのは厭だなぁ。ま、相変わらず怖いかエッチな夢しか見ないのだが。

 外は静かで、夜の海のようだ。

2011.12.02 10:21
久しぶりにたぐちさんのブログを覗いた。かなり頻繁に更新されるようになっていたのでどうしたのかと思ったら、日々のツイートがそのまま載っていた。この手があったか! 自分のブログは原稿用紙2枚分と決めているので、800÷140=5.7…、ツイート6回で1本更新できる!!
 via ついっぷる/twipple
という、自分の思い付きに突き動かされてやってみた次第。実際に10本のツイートからのリライトであるが…、コレ、リライトなのか??(苦笑)

'11.11.26  随筆 

もんちゃんと「大切な何か」
 先の週末はほぼまる2日間、家の片付けをしていた。いや、「家の」ではなく「居間の」と言うべきか。

 前回の記事の通り、祝日に来客があった。客間に充てられるのは居間だけなので、片付けることにした。こちらの荷物は、共有物と私ともんちゃんとでほぼ1/3ずつである。

 私の荷物が多いのは本欄で説明するまでもないこととして、なぜにもんちゃんの荷物が多いのか。一つには、価値観が独特で他の人間が手を付けられないため。そしてもう一つには“クリエイター”なので、例えばボール紙を折ってテープでリボンを貼り付けただけの物が、「大切な何か」だったりするのだ。そして旺盛な創作意欲で「大切な何か」は増え続ける。

 もんちゃんの「大切な何か」が居間の片付けで大きな障害となるのは確実だった。しかし、作業当日意外やこの問題はあっさり解決してしまった。居間の片付けとは関係なく、もんちゃんがDKにある自分の玩具を整理し始めたのだ。

 うちは居間を挟んで2世帯のDKがあるが、揃っての食事は居間で摂るので、うちの世帯はDKを使わなくなっていた。そうなると物で溢れる様になる。テーブル周辺は私の物で、その他の床は次女もんちゃんの玩具で埋め尽くされていた。

 「言ったでしょ。DKでみんなで食事をしたいんだって」というのが妻の説明だった。しかし、それにしても極端である。ボール紙の工作物どころか、リカちゃんハウスやアンパンマンの何とかとかを、ガシガシ棄て始めたのだ。今までの拘りは何だったのだろうという位の変わり様だった。棄て終わってから騒ぐのではないかというのが普通の懸念だが、この子は決めるのが早い上に絶対曲げない。買い物へ行っても、探し始めで「これ」と言ったら、それで決まりなのである。

 かくしてDKの大荷物は1/6程になった。しかしその手伝いをしていたために居間の片付けはあまり捗らなかったと言ったら言い訳みたいだ。


'11.11.16  随筆 

モトカノとブックマーク
 久しぶりに古いブックマークを引っ張り出して、以前にやりとりのあった人のブログを見て回った。いくつかにはコメントを残して回る。ご無沙汰しています。

 一昔前ならhtmlの日記だったが、今そういう人は殆どいない。今風にはtwitterのフォローもあるが、四六時中動向を知りたい訳ではない(相手もそうだろう)。

 Mac関係は活動自体していないし、ガン関係もいつの間にか周りは引退している。自転車ですら骨折事故で休んでいた間に縁遠くなってしまった感もある。自分はと言えば、本欄の更新は欠かさないもののツイートばかりになってしまっていた。いつぞやツイッターに精を出しているとブログのコメント欄が埋まらなくなり、元よりBBSは閑古鳥が啼くねと書いたが、まさしくその通りである。ツイッターのリプライは、気安いのかも知れないが後で見返すには向いていない。自分に返してくれた物という感覚が薄い。

 webの繋がりは殊更に脆く感じるが、しかし実生活の繋がりとて大差はない。やあやあと陽気に酒を酌み交わしていようが、半年会わなければ名前も忘れる。

 ところで、システム手帳を使わなくなった辺りから、アドレス帳の類をちゃんと作らなくなった。仕事関係は名刺ホルダーがあれば足りるし、友人知人は年賀状を出す時期以外は必要ない。最近は几帳面にアドレス帳を整えていたばかりにフェイスブックで“引っ張りだこ”に陥ってしまう人の話をよく聞くので、良し悪しだなと思っている。

 もっとも、すっかり忘れていた旧い知り合いが、気紛れにメールをくれたりするきっかけにはなって、それはそれで面白いんじゃないかなとは思う。終電間近の山手線で学生時代の彼女に出会すみたいな感じかも知れない。まあそうそうあっても困るのだが、そもそも、そんなに沢山モトカノなんかいないのだった。


読書 平安寿子「恋愛嫌い」集英社文庫

アンチ恋愛体質のアラサー女性3人の話7本の短編からなる。大半が、大雑把に書くと「別に恋愛してもしなくてもいいじゃん」という話なのだが、「どうせまとまらないってオチ」と思いながら読む恋愛小説ってのもな。いや勿論、全体ではそれだけって話ではないが。


'11.11.11  随筆 

ぞろ目
 例えば今日の様に数字の揃う日があると、亡くなった父を思い出す。電車がまだ切符で乗る物だった頃、定期で通っているにも関わらず、わざわざ日付がぞろ目になった切符を買ってきていた。

 尤もこのエピソードに関する限りは、殊更に強く私の印象に残っているという程ではない。むしろ父の死後、そういう日に妹が切符を買ってきて、仏壇に供えていたことの方が印象深い。

 今日なぞは間違いなく買ってくるだろうと思うのだが、肝心の妹は件のエピソードの当時と違い今は自転車通勤なのだ。それとも駅前の勤務だから、ちょっと寄って買ってくるだろうか。

 そんなことを考えているうちに、妹が買い逃したときのために自分が買っておくべきではないかなどと思い始める。私は電車移動の営業職なのでいくらでも買える。いくらでもと買う必要はないか。何なら11時11分に買っても良い。いや、切符に購入時刻は打刻されていたかどうだか…。私は定期範囲外の路線では大概モバイルスイカで乗るので、切符自体を手にしていないため記憶にない。

 ちなみに11月11日というのは、うちの家族にとっても特別な日である。母の誕生日なのだ。ぞろ目切符のエピソードも、実は母の誕生日だから毎年買っていたということだったのではないか、などと考え始める。

 家族の誕生日には夕食がちょっと豪華だったりする。父がそういう人だったということもあるが、父がいなくなっても、私が結婚した後は、妻が母と2日違いの誕生日なので、特に11月半ばはその習慣が今も変わらない。反抗期真っ直中の長女がどう臨むかというのが気懸かりではある。

 ちなみに誕生日が近いので母と妻は同じ星座だが、血液型も同じである。血液型と言えば、母も妻も妹も長女も同じB型なのだった。私だけがぞろ目から弾かれている様だが、しかし次女は私と同じ午年生まれのAB型だ。

 やはりぞろ目にほっとする性分は血なのかもしれない。
  


時刻はあったのだが、そもそも年は西暦ではなく年号表示だった。残念。

読書 角田光代「三月の招待状」集英社文庫

「カッコいい大人になりきれず、いたずらに年を重ねて行く、決着の付けられない人々」という香山リカの解説通り、この物語は結局「どうもなんない」で幕を閉じる。ドラマチックな様であったり倦怠の様であったりしながらも、しかし結局はどうにもならない。それを知るための物語な訳だが、三十代というのはそれを知るには丁度良いタイミングなのだろう。尤も、そこで知らなければ、一生知らないままという気もするが。


'11.11.8  随筆 

あと何も要らないよ

 最近、ガーシュウィンの「アイ・ガット・リズム」をカバーした邦楽が出たらしく、FMでよく耳にする。

 ご存知の様に、私は食や音楽といったものにあまり継続的に興味を持てないので、件の原曲の事は殆ど知らない。この記事を書くために検索した程度である。おそらくは星の数ほどあるそのカバー曲の中の一つをよく聴いていたために、なにやら耳に留まってしまうのだろう。そしてついそっちの曲の方を思い出してしまい、にやけてしまう。

 その曲というのがハッチェル特急楽團の「アイ・ガット・キャラバン」だ。「アイ・ガット・リズム」とベンチャーズの「キャラバン」等を掛け合わせた、楽團特有の全くメジャー向けじゃない“逸品”である。ハッチェル特急楽團の曲は、何となく聴き慣れた曲で引き付けておいて、ろくでもないことを歌い続けるという曲が多い。

 「音楽貰った。レーザー貰った。嫁貰った。あと何にも要らないよ」

 という歌詞がある。音楽や嫁と、レーザーディスク(のデッキ?)という落差が何ともおかしいし、それだけ貰っておいて今更「あと何にも要らない」というのが何ともとぼけている。しかし実のところ、自分の幸福感というものも、それとそう大差のない、つまり重さの違う色んな物で充足されるものではないか。

 「今、幸せだな。他のことはとりあえず今はいいや」と思える瞬間(そんなにはないんだが)は、そう思わされる要因を並べてみると、ちぐはぐで些細なことばかりであることに気付く(酒が旨いとか、欲しいオモチャを買ったとか)。尤も、そういう瞬間にいちいち分析することはなくて、後になって考えてみればという事なのだが。

 逆に、こういう事が充足されたら幸せと言うだろうなと頭の中で並べてみても、それらは楽だったり得だったりはしても、実のところそこに幸福感を覚えるかというと難しい。まあ、こちらは簡単に実現しないので想像してもあまり意味はないのだが。


'11.11.2  随筆 

男か女か
 斜向かいに座った人が気になり、暫く見ていた。赤の他人をあまりじろじろ見るものではないが、相手は座って俯いていて私は立っているので、すぐには気取られることもないだろう。

 少し傷み気味の肩まである長髪に、ポイントフレームの眼鏡。上はエンジとオレンジの中南米調柄物のフリースで、下は黒いコーデュロイのパンツ。そして紫の革のショルダーバッグ。

 それのどこが気になるのかと言えば、文章では伝えにくいのだが、要するに男か女か分からないのだ。

 フリースはファスナーなので身頃で判断できないし、体型もよく分からない。ちらと顔を覗くとどうも中年男性にしか見えないのだが、まあこういう造型の女性もいると言えばいるだろうという範囲である。大体、鞄はどう見ても女物だ。朝の山手線車内ではあるが、三十後半で化粧っ気がない女性というのも、まあいるだろう。しかし暫く観察すると、この人はどうやら男性の様だという結論に至った。持ち物に隠れていた手を見て、ああこれは男性だなと思った次第である。

 少しして考えてみたのだが、私がその人の事が気になったのは、実は男か女か分からないからだけではなかった。

 まず第一に、文章では伝えにくいのだが、お洒落でない。お洒落でなくて男性に見えてしまう女性というのはしばしば見掛ける様に思うが、お洒落でなくて男か女か分からない男性というのはあまりいない。大概の男か女か分からない男性というのは、少なくとも自分の知る範囲では、大抵お洒落である。

 それから、これも文章では伝えにくいのだが、不思議なオーラがない。要するに普通なのである。男か女か分からない男性というのは離れていてもどこかしら不思議な感じというか、オーラの様なものがあるものだが、それが全くない。

 なんなんだろうなぁこの人は、と思っている内に山手線半周して神田に着いてしまった。でもよくよく考えたら「なんなんだろう」なのは私の方か。

'11.10.29  随筆 

インスタントコーヒーについての考察
 少なくとも文明国では、人は明確に2種類に分けることが出来る。それは、インスタントコーヒーを飲む人と、飲まない人である。

 そもそもがコーヒーを飲まない人は、当然インスタントコーヒーなぞ飲まないし、コーヒーを好んで飲む人には頑なにインスタントコーヒーを拒む人が多くいるのも事実だ。だから相対的に「インスタントコーヒーを飲む者」の数は少ない。

 それにも関わらず世にインスタントコーヒーが多く出回っているのは、ひとえに保存食として贈答品にしやすいという面が大きい。現実の我々は、必要があって厚切りのロースハムをコレステロールゼロのサラダ油で炒めた物ばかり食べている訳ではないはずだ。世の中のシステムというのはその様に出来ている。

 しかしここで我々は一つの大きな矛盾に行き当たり、結果としてとてもシンプルな推論を打ち立てるに至る。贈答し易いが飲む人が少ないということは、インスタントコーヒーは各家庭で余っているのではないかということだ。

 斯くして私は、勤務先で自分が飲むためのインスタントコーヒーを自宅の余剰在庫に求めるに考えが至り、妻に「インスタントコーヒーない?」とメールで訊ねた。しかし妻の答えは「自分で買えばいいと思います」という素気ない物であった上に、返信は5時間も後だった。

 インスタントコーヒーには飲用しか用途がない。ココアの様に菓子に振り掛けるという用法も寡聞にして聞かない。しかも嗜好品であり、冒頭で述べた様に、いらない人にとってはいらない物である。もしインスタントコーヒーに豊かな滋味があったりしたら、今頃どこぞの妙な団体が「家庭に余っているインスタントコーヒーを、アフリカの恵まれない子供たちへ贈りましょう」などという活動を展開しているに違いない。

 ともあれ、紆余曲折があり、いま会社の食器棚には預言者の様に3本のインスタントコーヒーが並んでいる。


読書 村上春樹「レキシントンの幽霊」文春文庫
村上春樹「1973年のピンボール」講談社文庫

僕は探し物をしている。それは多分、僕以外の人にとっては、例えばマヨネーズの空き瓶の底にへばり付いてしまった一個のラズベリー風味のキャンディ程度の価値しかない物かもしれない。それは、「彼、女の趣味は俗っぽいのよ」という台詞がどんな場面で誰から発せられたものかを確かめたいという、ただそれだけのことだ。でもそれは僕にとっては、角田光代と平安寿子の新しい文庫を買ったまま事務所のデスクの上に置きっ放しにしてしまっても構わないくらいに大切なことなのだ。それを確かめるためだけに、ここ暫くの僕は村上春樹の古い著作を続けて読んでいる。ところが僕は今になって大切なことに気が付いた。いつだって大切なことには後になってから気付く。僕にはそういうところがある。それは、ひょっとしたらあのシーンは、村上春樹ではなくて、村上春樹の訳した誰かの作品の物だったのではないかということだ。今からカーヴァーやフィッツジェラルドを読むのかい? 朝の混雑した山手線の中で「グレート・ギャツビー」を読まなければならないなんて、とても質の悪い冗談だ。いや、質の悪い冗談はこの文章の方か。


'11.10.6  随筆 

妄想カフェ
 得意先が商業施設なので、例えば都合で時間を潰さなければならなくなっても、何も困らない。テナントの店にでも入ればいいのである。

 そんな訳で、そのエリアのカフェにはしょっちゅう入る。特に、空いている事の多いiはよく使う。あまりにしばしばであり顔は覚えられている風であった。また、たまにそこで件の得意先の人間と出会して挨拶をしているので、明らかに関係者なのは分かるだろう。レジが店長だと従業員割引を掛けてくれる様になる。注文も決まった物しか頼まないので、たまに違う物を頼むと「今日は違うんですね」と言われたりする。

 iをよく使うことを話すと、得意先の担当者に「ああ〜、あそこの店長可愛いからでしょう?」と言われる。確かに店長にしては若いし笑顔が可愛い。まあ萌えっぽいのは好みとは違うのだけど。

 ある日他に客の居ないアイドルタイムの時に話し掛けられて、自分がこのエリアのフロアガイドを作っているのだと話した。

 「どこかのお店の店長さんだと思っていました」
 「それなら店長会議でお会いするんじゃないですか」
 「それもそうですねー」

  などと話す。

 アポイントがずれて時間を潰している時は、それはまあ仕事をしているとは限らない。本欄を書いていたりもする。いま正にそれだ(笑)。

 そういえば最近掌編小説を書いていない。この状況設定で何か書けそうな気もするがどうだろう。顔見知りのカフェの美人店長。上がりの時間に従業員出入り口で出会す。「今日は忙しかったです」「どうですか、お疲れ様で一杯?」なんて。

 まあ大体物書きなんか大なり小なり妄想癖があるもので、逆にそういうのがなければ事実だけでは余程でない限り面白い話なんて書けないだろう。私服はどんな格好だろうとか、酒は呑むのかなとか、延々そういう事を考えていたりする。

 おっと、何のためにここにいるのか忘れるところだった。そろそろ時間だ。


読書 長嶋有「エロマンガ島の三人」文春文庫(再読)

'10年8月の再読。表題作と、連動する「青色LED」と、プレイボーイの妙なエピソード「ケージ、アンプル、箱」だけ読む。捲るときに表題が見えないように、ブックカバーに中表紙まで差し込んでみたり。


'11.9.28  随筆 

読み返す
 このところ、新しい本に食指が伸びず、暫く手元にある文庫の再読が続く。その割には「今週の読書」欄に再読と書いた記憶がないと思ったら、何のことはない本欄の更新自体が滞っていた。

 日々何もなく過ごしている訳でもないのだが、日々のことはツイートしてしまうと後はどうでも良くなってしまう。大切な事も、どうでも良い事も、等しくどうでも良くなってしまうのである。

 言葉にしてしまうとそれで執着が無くなるからだろうかとも思ったが、ブログの方は割に何度も読み返していたりする。私の場合はhtmlにしてローカルディスクでも保存しているという事もあるだろう。そもそもツイッターはログの読み返しにあまり向いていない。あるいはそれはクライアント側のインターフェイスの問題で、「PCでは」が付くのかも知れず、“パッド物”だと楽なのかも知れないが。いや、そういう事でもないな。

 私にとってツイッターは、思い付いた事を書き留めておくメモ帳か、知り合いへの伝言メモの様な物、もしくはBBSの代替になっている。たまに「これは良い事言った」(笑)みたいなことも書く気がするが、大概は時間が経ったら捨てても良いような事ばかり書いている。だからあまり人様に検索されたりふぁぼられてもなと、いつも思う。

 よくツイッター上で議論をする人がいるが(親しい知人にもW)、私は敬して遠ざけている。以前BBSでは頻繁にやっていた気もするが、どうもツイッターには向かない様に思うのだ。皆がTLと言うものはそれぞれ違い、相互フォローでもこちらの発言を読んでいるとは限らず、誰が議論に参加してるかがまるで掴めない。そうかと思えば族の様に「俺ら」扱いで@を並べる人もいて、字数制限ある中でご苦労なことだと思ったりする。

 ツイッターは自由なメディアだから自由にやれば良いと言う人もいれば、かくあるべしと言う人もいる。今更どうにもならんという気もする。


読書 片岡義男「缶ビールのロマンス」角川文庫(再々読)

本欄では'04年9月にワンコメントだけ書き、その前は約30年前に読んでいる。とりあえず表題作だけ読み返してみた。恋人が連休に別荘で独り待っているというのに、オートバイで途中わざわざ温泉宿に寄り道したりして結局辿り着かずすれ違うという話。高校生の当時は、こういう男女間のバランスはあるのかも知れないが、大人になったら腑に落ちるのだろう位に思っていたが、多分今はもう大人なのだが私には分からん。好きな女になら一刻も早く逢いたいと急ぐだろうし、そうでもないなら、特に義理もないのに別荘に泊まりにいく約束なんかしない。ロマンスなのかそれ?

読書 伊藤たかみ「八月の路上に捨てる」文春文庫(再々読)

本欄では'09年8月と'10年12月に取り上げているので今更書くこともない気もするが、意外にも昨年の冬と今とで感じ方が違う。いやあるいはその時の“感じ”を覚え間違っているだけかも知れないが。夫婦の関係が駄目になっていたところに夫が浮気によって離婚を決意するが、離婚するなり浮気相手には逃げられる、という時系列で事実だけ書いてもこの物語の本質も雰囲気も全く伝わらないのは当たり前か。この作家にとっては、離婚ですら“穏やかな他者の肯定”なのだろう。

 


'11.9.20  日記 

山梨は愛知の近くか?
 今週は変な週だ。2回の3連休に挟まれて平日が3日しかない。まあ、それは我らウィークデイ出勤のサラリーマンにとってだけの話だが。

 前3連休の中日は、義母の実家である山梨に一族が集うので、皆で行ってきた。…片道4時間半掛けて。空いてたら名古屋に着いてるだろ。前回に続き復路は妻が運転し私はお酒のお付き合いという事に。と言っても殆ど勝手に呑んでいれば済まされており、慣れない多人数の親族相手のお酌という場面はない。義母の実家は一番下の弟である叔父さんが継いでおり、その奥さんが、酒飲みの私が呑めないのは可哀相だから帰りは運転代わってあげなさいよと何度か言ってる内にこうなった。妻はこれに関しては全然構わない様なのでまあ良し。

 極めて面倒な状態にあった反抗少女の長女も、何故だか予定調和的な態度で同行。百歳近い曾婆ちゃんの前ではさすがに大人しいものだった。

 親族の殆どない家系の私にとって妻の親族の多さは脅威だったが、さすがに最近は慣れてきた。ところがのっけから「あれ? この人誰だっけ」という人に出会す。実は本当に初めて会う人だった。この家の叔父さん夫婦の娘(二十代)の旦那だが、歳は十以上違って私と変わらない。

 7ヶ月の赤ん坊を連れていた。連れていると言うか殆ど実家におり、旦那もこの家から通っているのだそうだ。「マスオさん状態です」と。大変だろうな。同じ屋根の下に義祖母・義父・義母・義兄(十近く年下)である。しかし赤ん坊可愛いな。赤ん坊って色眼鏡好きなのか? よく反応される(笑いかけている様な赤ん坊独特のあれ)。

 それ以外はほぼ何も無し。妹車のディレーラー調整をし、庭の芝の刈り残しを刈って枝垂れ梅の毛虫を除去し、Poloで車検を乗り切るかどうか検討するために母をディーラーに連れて行った。いつもならそれぞれで1回書くだろうって? 疲れたのでやめやめ(そういう問題?)。

義理の叔父宅正面の風景。娘が撮ったので何をどう撮ったのかは不明。


DSで何かを見せているもんちゃん。ちょっと危険です(苦笑)。

'11.9.7  随筆 

ネット史上最も有名な女性

 この画面を見てギョッとする人は、相応にネットを利用している人だろう。ネットを徘徊していると、結構な確率でこの女性に出会すことになる。

 彼女は失効したドメインにアクセスすると出てくる。そこは、いわゆる期限切れのドメインを押さえて転売する業者(レジストラ)による仮ページである。それでなくともこちらには自分の見たいサイトが見られないという落胆があるのに、大抵はこの様に関連するキーワードの広告リンクが、それもちょっと下世話な奴が貼られており、更に厭な気分になる。彼女がいくら爽やかな笑顔を振りまいても、あまり印象は良くない。


ちなみに、サブアカウントでやっていたサイトのフリーBBSがあった場所。

 ところで彼女は何者なのだろうか。「ネット史上最も有名な女性」とか書かれていることもある。同じ業者でも以前は違う画像のバージョンもあった記憶なのだが、この数年は必ず彼女である。画像ファイル名は「ist2_746781_female_student.jpg」となっており、検索すると、これは海外のストックフォトであることが判る。

 ストックフォトと言うと、同業の皆さんは別としてあまり普通の方には縁のない物だろうと思ってしまうがそんなことはないか。以前は分厚いサンプル冊子を何冊も捲らねばならなかったが、最近はオンラインで簡単に閲覧入手できる。 iStockphoto社というと馴染みがないが、gettyimages社の傘下である。というか今ゲッティ傘下じゃないストックフォトなんて殆どないんじゃないのか?

 ちなみに彼女のことをイマイチと評する失礼なコメントをまま見掛けるが、件のストックフォトを見ると、他のカットではもっと整ったキュートな表情をしていたりする。勿論ポーズで選んだのだろうが、しかしなぜまたわざわざこのカット? という気になる。

 サイズXSmall(425 × 282px)で、2credits(約240円)支払えば、彼女を自分の物にできる。

D.Steller氏による彼女のポートフォリオ。ちなみに彼女のお名前は分からない。