随筆/日記
公文書

'06.12.23  随筆

ヨムヨムをヨムヨム

 斬新なカバーデザイン。斬新過ぎて不安になる。私の不安と言うより書店販売員に代わっての不安だ。この体裁では、まるで新潮社の販促用パンフみたいではないか。平積みされていたらレジを通らずに持って行かれてしまうのではないか。私自身は手にする前にこれが売り物だという事は知っていた。新潮文庫に広告が挟まっていたからだ。もっとも680円するということは忘れていたが。

 ちなみに中身は有名作家書き下ろしのエッセイや読み切り短編満載である(宣伝文みたいで変だな)。ダイジェストや書評・解説の類を編んだわけではない。でも大概の人は実際ページをめくるまではその様に思うのではないか?

 何も文芸誌然とした体裁を良しと言っているのではないが、だからと言って掲載作家の名前一つ表紙に載っていないというのはどんなものなのか。現状の文芸誌の表紙は、確かに読むつもりの人以外が手にする物とは思えないけれど、こんなノベルティチックでファンシーな装丁にしたからと言って、きちんとリターンしてくる読者が手にするとも思えない。というか私は電車内で手にしていると恥ずかしい。

 私の、文芸雑誌やらアンソロジーやらの購入基準は、好きな作家、あるいは読んだことのある作家が3人程度は載っているという程度だ。この本は、重松清、角田光代、三浦しをんが載っていたので買うことにした。いずれも文庫本になるのはずっと先かありえないかというものだったので良かった(?)。

 本誌は『小説新潮』の別冊という扱いだが、このイラストレーターのファンが、対象読者層と合致するのだろうか。…しないよな。何にしてもこの表紙だけはどうにかして欲しい。真っ赤な地にパンダの雑誌を電車の中で広げられるか? 小官は政治的信条の上でも拒否したい(またそういうコト書くぅ〜)。

ヨムヨム


'06.12.14  随筆

公害と紙一重

 「ADトレイン」というのはJR東日本の広告代理店での呼称で、他社はまた異なる。要するに1編成まるまる同じスポンサーの広告を掛ける列車のことだ。

 「ADトレイン」の媒体料はかなりの額*になる。従っていい加減なクリエイティブは許されない。残念ながら「ADトレイン」の仕事をしたことはないが、どのように大変であるかは専業者として概ね想像が付く。

 だから大抵の「ADトレイン」の制作物は「さすが」と思わされる物が多い。1両完結の物語のようになっていたり、トリッキーな構成になっていたり、たまに絨毯爆撃の様な物もあるが、大抵は全体の構成がよく考えられたものになっている。

 それでもたまに、「これは酷い」としか言い様のないものもあり、これに金を出すスポンサーは悲惨だなと一瞬思ったりもする。しかし、広告は芸術ではなく客商売であるから、酷い広告というのはそもそも酷いスポンサーによって作られるのだ。これは意外に誤解されていることが多い。

 そういうものが「ADトレイン」に掛けられていると、悲惨なのは乗客の方である。酒場でたまたま隣席に居合わせた知らない奴のつまらない自慢話やくだらない冗談に延々付き合わされるようなものだ。これを悲惨と言わずして何と言おう。公害と言っても言い。

 街中の看板よりは駅の中に掲げられる看板の方が媒体料は高い。人が多いのだし、そして大概の人は“そこに居ざるを得ない”というある種の拘束力がある。そういう意味ではある種の責任感を持って作らなければならない様に思う。

 近年駅構内は壁面に限らず床や什器など、所構わず媒体化されている。時折思わぬ場所が広告になっていてドキリとすることがある。「印象に残る」というよりは厭な感じがする。いつぞや書いた改札脇で「おはよーございます」と声を張り上げるお笑いタレントのくだらない人形みたいのは勘弁して欲しい。あれは明らかに公害だ。

*
11両編成の山手線を高額月に半月借りると約1,600万。 これが高いかどうかは専業でなければわからないか。実は私も媒体屋ではないのでわからない(笑)。

ADトレイン(ジェイアール東日本企画)


読書 井上荒野「潤一」 新潮文庫

 漂うように生きる潤一と彼を巡る9人の女性達の物語。余程すかした男だろうと思い読み始めると、妙に軽薄な若造なんである。出てくる女はやたら発情してるし中盤までは大丈夫なのかと思う。いや、大丈夫なんである。さすが井上荒野だと思う訳である。


'06.12.11  日記

モノモライ

 前回のバーの話であるが、そういえば肝心の預かり物が何であるかを書いていなかった。知り合いというのは「鉄の城」のRyuさんのことであり、となれば当然ブツはグロック関連のブツである。Ryuさんが訪米した際にビジネスショーで入手した(ウソ)グロックのステッカーと20周年記念のピンズである。同好の志としてお土産に用意してくださったのだが、あいにく彼が大阪に越してしまうタイミングでもあったために、何らかの会合で年1回は行くであろうHollowPointに預かって貰うことになった次第である。そして本当に1年近く経ってしまい、会合に参加する予定もなかったために私は店を訪ねることにしたのである。マスターから受け取る際には既に何を預かって貰っていたかを忘れていたという始末である。ともあれRyuさん、ありがとうございました。

 さてもう一つ。これは何かというと、見たまんまのボトル入りの粒ガムである。宅配便で家に届いたのだが、受け取った母がBB弾と勘違いして「なんかまたジャラジャラいってるわよ」と怪訝そうに言っていた。実はFM番組の投稿採用景品である。J-WAVE「e-STATION GOLD」(毎金11:30-16:30)という番組があるが、ここの「LOTTE TOKYO BUONO」というコーナーで東京駅八重洲口のお薦めランチというのを募集していた。私の得意先の商圏に合致するので、テナントの中からお薦めの店を投稿したところ採用されたという次第である。もっとも、食い物に感心のない私であるから、コメントは身近な誰かの意見と商業コピーの組み合わせであったが。いや、旨いのは確かなので嘘ではないのだが。

 そんなどうでも良いことを書き連ねて1週間の始まりである。先週よりは多分やる気がある気がする。自分を励ます意味で黒のバイカーズパンツと「Mr.カラーリムーバー」を買ってみた(画像なし)。


自転車に貼るには大きい。
↑基準はそれか。

社内みんなで噛んでいる。やっぱやめよう。行儀悪いよ、この会社(爆)。

読書 重松 清「卒業」 新潮文庫

 電車内で読むのはきついなぁ(苦笑)。「あれ? この話」と思う物があったら、やはり方向性上の続編だった。40歳の誕生日を目前にして、子供の頃と較べて、意外におっさんになってからの方が別れには無頓着になれないという気がするがどうだろう。


'06.12.9  随筆

マスター

 私は人の名前を覚えられない。顔ほどには、という程度ではあるが。

 場には関係がなく私自身がそういう性質なので、仕事でも、あるいは例えば酒場でも人の名前はあまり覚えられない。

 他の客を覚えられないくらいは誰でもままあるとして、店主店員の名前もなかなか覚えられないのである。通う店は1人2人でやっているようなショットバーがほとんどなのだが、通い始めて半年ほど経ってからも心許ないことがある。ましてや、皆が呼ぶ愛称はまだしも、ちゃんと訊いているはずの本名はなかなか覚えられない。

 そんな私ではあるが、酒場で店主に対し「マスター」と呼びかけることはほとんどない。いや待てよ、通っている店で店主を「マスター」と呼ぶ人の方が少なくはないか。馴染みの店で呑んでいて、店主のことを「マスター」と呼ぶ客がいると、他の常連がどんな表情をしているか気になりつい顔を見てしまう。口の端が曲がっている様でもあり、優しく目を細めている様でもある。

 幸い名前を覚えられても、今度は呼び方が定まらない。呼び捨てにすることはあまり多くはないのだが、「さん」なのか「くん」なのか、あるいは愛称なのか。歳は、あまり関係ない。店員と客であっても、殊に酒場での関係性というのは微妙だという気がする。

 久しぶりのバーに行く。遠くに越した知り合いが私宛の荷物を預けているのだが、その店のあるのが滅多に行かない街ということもあって半年以上もそのままにしてしまっていた。申し訳ないほどに不義理である。ここの店主を私は「マスター」と呼ぶ。私は顔見知りだが常連とは言えないので当然と言えば当然だが、その店を教えてくれた知り合いは常連なのに彼らのほとんどもまた店主を「マスター」と呼ぶ。皆名前は知っているのに。

 もっともこの「マスター」の場合、ハンドルネームがマスターであるからして、言っている意味が違うのかも知れない。


 で、その日はマスターの後、おさむくん関根君ちさとちゃんは満席だったのでのりちゃん、最後にふるくん、てなコースでした。やれやれ。


読書 竹内真「自転車少年記ーあの風の中へー」新潮文庫

 ちょっと“自転車もの”ということで選んだが、思っていたよりは面白かった。もっとも、帯に入っていた「ジャニーズタレントで映画化」云々の話で第一印象は悪かったのだが。つまらん副題付けるなぁ(失礼)と思っていたら、単行本とは“別アレンジ”となっているからなのだった。


'06.12.2  随筆

活動

 本欄でたまに出てくる“父母連”であるが、これは娘の通う学童クラブの父母会が属する市内全域の連絡会のことである。要するに単なる「お父さんお母さんの寄り集まり」なのだが、実務上は“残念ながら”ありがちなレクリエーション運営組織ではない。表層的には運動会の主催やら地元の祭りの協力やらをしてはいるが、市議を通して市議会に請願を出したり、市の関係部署との折衝をしたりもする。要するに活動しなければならないほど面倒な状況が常にあるのだ。

 そんな活動ばかりやっていても気分はうんざりするばかりだし、この手の組織にありがちな体温差は、ここにもある。そもそもがこっちだって暇つぶしでやっているわけではない。学童クラブに子供を預けないと働けない位なのだから、暇な訳はない。

 でも好き好んでなのだろうと言われれば確かにそうだ。子供のためと綺麗事ばかり言う気もない。仕事でもない趣味でもない人達と期間限定でつきあうというのも面白いではないかと思う。熱心にやっていて「仕事でもないのに」と言われたことがあるが(家人にではなく)、それを言うならものを書いたり自転車に乗ったり酒場で呑んだりするのも仕事ではなく、とすれば私は仕事のために生きているわけではない。

 話を戻して父母連であるが、スローガンが、子供も親もひとりぼっちになってはいけないという主旨を謳っている。仲良しでなく、体温差もあり、それぞれ異なる方向性に互いで折り合いをつけて何とかやっていくという意味では父母連も学校も社会もどこでも同じだ。熱心な役員の一人が「親ばかり仲良くなってしまってねぇ」と苦笑いしていたが、誰とも何とも繋がっていないよりはうんとマシだと思う。

 ちなみに私の担当はサイトとMLの管理担当広報係である。実はやっていることが趣味や仕事と大差ないのである。さすがにどちらもここではリンクできないけど


読書 伊藤たかみ「ロスト・ストーリー」 河出文庫

 正直言うと途中で飽きた。どうしても村上春樹風に感じるのは穿り過ぎかと思ったが巻末で解説者が比較していた。私は引き込まれる感じは覚えなかったし伏線らしきものがいちいち鬱陶しかった。


'06.11.30  随筆

「走れメロス」

 ここしばらくこの話を読んでいた。なぜにこれを今更であるが、娘の学校での「父母による読み聞かせ会」のためである。それなり文字の読める小学校2年生になぜにわざわざ父母が学校まで出向いて読み聞かせなぞやるのだとは思うが、そこはそれ、適当に賛意だけ表しておいて、働く親の朝の時間を何だと思ってるんだと内心毒づくわけである。いや、内心ではなくて父母会で実際口にしてしまったが。

 ともあれまずは本選びだが、今年は齋藤孝編「理想の国語教科書」(文藝春秋)から選んだ。帯に「小学校3年生から〜」と書かれているので、2年生には若干難しいだろうし、これはあくまで読むのに適しているという選であり、読み聞かせには向いていないかもしれない。しかし娘に読んで聞かすと内容は概ね理解できるようだし、その上で「怖い」とか「悲しい」という感想も出るのだからとりあえずOKだろう。

 言葉が難しいのは仕方がない。大人だって「邪知暴虐」なんて使わない。でも前後関係で文意は分かる。何よりいちいち解説していたらせっかくのテンポ良い文章が台無しであり何のために原文で読むのかがわからなくなる。

 事前に調べると、思っていた通り「走れメロス」は多くの絵本やアニメになっており、ちょうど今年NHKの『てれび絵本』でも取り上げられていた。そのため「それ知ってる」という子供達が多かったのだが、原文を聞いてどう思ったか。大体子供向け翻案というのは、ストーリーとキャラクターだけ通じれば良いので、原文のリズムなぞ当然伝わるはずもない。もっとも読み聞かせでは読み手が上手くなければやはり通じないのだから、その辺は心許ない。

 太宰治と言うと、実はちゃんと読んだのは「津軽」くらいのものという私である。本作の原文を読むのは初めてのことで、子供達に偉そうなことは言えない。でもやはり原文は違うなと実感する。子供達に伝わっていれば良いが。

齋藤孝「理想の国語教科書」文藝春秋


 ところでこれ、実際には中学校2年の教科書に載っているとか。齋藤氏ではないが中2では遅い様に思う。中学校の先生の意見も訊いてみたい(私の知り合いに国語の先生はいないが)。

'06.11.15  随筆

Hの夢

Hの夢を見た。

 なぜか「僕ら」はHの家に集まっていた。集まっているのは高校時代の仲間だが、それがいつのことなのかは分からなかった。夢は不思議なもので相手を目視して認識しているのに年齢が分からなかったりする。しばらくすると、そこが高校生の頃見たHの家とは違うことに気が付き、ああそうかこれは割合最近の話かもしれんなと考えた。

 何かの馬鹿話で盛り上がっていると、その内仲間の1人がここで“ゲーム”をしようと言い始めた。いつもなら私が言い出しそうな話だが、いくら広くても他人の家だぞと言ってみた。しかし既にファティーグに着替えた一団は「展開!」という号令で奥の方に走っていってしまった。

 私は思わず「指揮官がいなくて作戦は成り立つのか?」と何とも間抜けなことを口にしたが、そばにいた“副官”は「なに、こんなのは作戦の内には入りませんよ」と言い、暗闇に向かって何か合図をしていた。奥の方で効果音ぽい爆音が響いて地面が揺れた。これはサラウンド装置みたいなものか? Hにオーディオの趣味はなかったよなと考える。

 まいったな、この状況をなんとか終息させないとと考えていたところ、ちょうど私は別室のHに呼ばれる。しかしHは景気がどうとかそういう話しかしないのだ。他に何か言いにくいことがあるようだったが、上手く聞き出せないまま彼は別室へと移ってしまった。

 すぐに別の仲間がやってきて、いやぁ騒ぎ過ぎてHから出禁を喰らってしまったよと言った。“長男”の試験勉強に差し障ると言われたそうだ。会っていたのはその話ではなかったのかと訊くので、いや多分その用事ではなかったろうと答えた。

 「ここにもしばらく来られないな」と言いながら、屋内プール脇の地下2階から玄関まで続く薄暗い階段を上る。さすが建築士よくこんな家を建てたよなぁと感心する。玄関の窓からは煌々と外の光が差しているのだが、階段を上っていくと周りは微妙に暗くなっていくのだった。


'06.11.11  随筆

一つには功の多少を計り、彼の来処を量る。

 昼食に何を摂ろうか、悩み始めると長い。あれもこれもと思い悩むのではなく、どれでも良くて決まらない。食べることにあまり興味がないのである。不味くても構わない訳ではない。不味い食べ物は嫌いだ。

 最近関わったある講演で、五十代の講師が、自分達の頃と比べて今の子供達は幸せだろうかと問うた。少なくとも食べ物に関しては自分達の方が幸せだったろうと言うのだ。物は少なかったが旬の物を食べていた(食べざるをえなかった)ので、ちゃんと本来の栄養がある物を食べていたからだと言うのだ。いつでも食べられる今の野菜なぞは、どれも昔の数割の栄養しかない。ごもっともである。

 講師の話自体は、でも1989年に国連で「児童の権利に関する条約」が採決されたのでその点に於いて今の子供達は幸せだ、と続くのだが。その話はいずれまた。

 ともあれ、確かに昔に塾の合宿で行った長野だかの農家で食べたトマトは旨かった。あれはまた食べたい。

 私はうっかりすると立ち食い蕎麦やパスタの類ばかり摂ってしまうので、努めて品数の多い物をせめてと、定食屋に入ったりすることもある。今どきの店だと無添加やら低カロリーやらを謳うメニューも少なくない。しかし味は化学調味料であったり、素材は冷凍品であったりするのだ。栄養は、ないんだろう。その上カロリーもないとなると何のために食べるんだかわからない。サプリメントなんかばりばり噛んでいる場合だろうか。

 食事とは命生きながらえるための薬、というのが仏教的思考である。だからこそ死に行くものに感謝をしつつ口にするのだ。それもないとなれば私達は単なる破壊者でしかないじゃないか。

 という様に、昼何を食べるかということからあらぬ方向に思考が飛んでしまい、結局店を決められぬまま考え事をしながら地下街をうろうろしてしまったりするのだ。

 にしても、腹減った。


 しばらくネタと意欲に欠けていた本欄gun&militaryですが、東京マルイのグロック17サードジェネレーションモデルは発売日に購入済み。レポートはしばしお待ちを。もっとも、取り上げられ過ぎていて書くことないかもしれないけれど。


読書 ダ・ヴィンチ編集部編「君へ。つたえたい気持ち三十七話」
メディアファクトリー

 『ダ・ヴィンチ』での日本テレコム冠付き連載のエッセイアンソロジー。藤沢周、田口ランディ、角田光代、重松清といった好きな作家も書いているしということで買ってみた。個々の作家の説明が一切無いのを潔いと見るか手落ちと見るか。この誌面で写真カットは不要ではないか? タイトルも酷いな。等々不満もあり。こういう本で次に読む作家を見つけるのも良いが、印象に残るのは「この人のは読まないな」というケースだったりする。しかしまあ疲れた。


'06.11.9  随筆

ちょいワルおやじ御用達アイテム

 修理に出していた鞄が上がってきた。当初「11月下旬」と言われていたから予定より半月ほども早い。もっとも、預けた時から「さばの読み過ぎだな」と思っていたし、受け付けた伊勢丹の店員も「もっと早く上がりますが」と言ってはいたが。

 ともあれ助かった。間に合わせで引っ張り出した昔の鞄はどうにも具合が悪かったのだ。大体みすぼらしくなってきたから買い換えたのだし。それに、パソコンバッグの様な野暮ったい素材感が気になって仕方なかった。加えて切れてしまったストラップの代替品がそもそもパソコンバッグから持って来た物で、ナスかんの部分がプラスティックで安っぽい。

 そんなだからか、これを持っていると街の客引きに声を掛けられる頻度が上がる気がする。「声掛けますかねぇ、Sさんに?」と酒場で言われたのはある種のリップサービスなんだろうか。その割には表情も疑わしそうだったが。私なんかより明らかに危なそうなおっさんが集う店なのにさ。実のところ私は柄が悪いわけではないし、どちらかというと人の良さそうな風体に見えると思うのだが。

 「“声掛けるなオーラ”が出てるからさぁ。Sがいるなと気付いてもそのままだよ」と、近所の酒場で顔見知りの1人に言われる。朝夜遅い私だが、この人とは時間が合ってたまに駅近くで会う。確かに私はむすっとして眉間に皺を寄せていることが多い。でも街中で知り合いに出会して声を掛けるのは大概自分の方なのだが。

 知り合いの風俗嬢(客として知り合いな訳ではない)は私を金融業だと思ったのだそうだ。アホか。よくそれで勤まるな。パソコン持ち歩く金融業者がいるもんか。大抵は独特の縦長で小さいあの変な鞄をぶら下げているじゃないか。

 それはともかく、やはりパソコンバッグじゃ厭なんだよなぁ。そのくせ満員電車内のことを考えるとストラップは必須なので、条件に合う物を見つけるのはなかなか難しいのである。


読書 藤沢 周「箱崎ジャンクション」 文春文庫

 あんたさ、藤沢周なんか読んでると……どっちにいるんだかがわからなくなるんだよ。それにしても箱崎がどんなだったか思い出せない。見に行くかと思ったんだが、自転車じゃあ行けねぇよなと独りごちて、俺は口の端を歪ませた。


'06.10.25  随筆

エロい感じのお姉ちゃんと焼き肉

 焼き肉の話ばかりする男がいる。彼とは週の半分近く顔を合わすのだが、3回に1回は焼き肉を喰いに行ったとかそういう話を聞いている気がする。実際の所はもっと低い頻度かもしれないが、なぜだかBAR BLACK LUNG店長のおさむ君の顔を見ると焼き肉のことを思い出してしまう。あ、名前書いちゃった。

 しかしそもそもまず、自分が最近全く外で焼き肉を食べていない。それに焼き肉と言えば家族で行くチェーン店か、会社御用達の店しか知らない。

 「焼き肉か。たまには良いよな」と口にしている時にはかなり焼き肉に“行ってみたい”モードになっている。

 「でも焼き肉屋というと、やっぱりこう、エロい感じのお姉ちゃんと2人で行くってイメージがない?」

 「Sちゃんみたいな、ですか?」

 
オーナーふる君の言う彼女は店の常連でその業界の女優さんである。

 
「ああいいねぇ。Sちゃん、焼き肉奢るから付き合ってくれんかなぁ」

 何を言っているんだか。そのくせ実は肝心のSちゃんの顔が思い浮かんでいない。駄目だね。

 で、結局その焼き肉熱はどうしたのかというと、数日後に会社近くの焼き肉屋のランチタイムに1人で食べに行った。ランチなのに自分で焼くのは面倒だなぁとか内心思いつつ自分で焼いて食べた。1人で肉を焼いて食べるというのは寂しいと言うより何か間抜けな感じがする。

 それでも行ってしまうほどに衝動的にというのでもない。その日は朝からローテンションだったので、焼き肉でも食べればマシになるかなと考えたのである。焼き肉には幸福感が湧く成分みたいな物が含まれているんだそうな。ロジカルである。

 とりあえず空腹は満たされ落ち着いた。肉の成分がどれ程効いているのかは不明である。特に幸福感もなし。
だから呑みに行ってしまうのかと言うと、それは関係ない。

 日が暮れて寂しくつまらない夜は、月に挨拶しに外に出るものと決まっているのだ。


読書 伊藤たかみ「17歳のヒット・パレード(B面)」 河出文庫

 格好良くとも悪くとも、青春とは勘違いである。それが分からないと、死んだり大人になったりしてしまうのである。


'06.10.23  随筆

ハゲとイヌ

 朝、車内の奥に進んでしばらくすると、ちょっと顔を顰めたくなるような香水の臭いに気付く。「香り」ではなくて「臭い」。やけに濃さだけある鬱陶しい臭いである。

 放射性物質を収集しながら日本海を飛ぶ空自のT2練習機の如く空気中の「臭い」を追うと、その先には、ダサめだけど露出の高い服を着た妙齢(というか私より多少上の年齢)の女性が座っていた。大きなトートバッグを抱え、眠そうな目をしているのに一向に眠る気配がない。普通混んだ電車の中で座っている人は伏し目がちに何かをするか眠るかどちらかにするものだろうが、いちいち周りを見ているのである。斜向かいで吊革に掴まって文庫を読んでいる私なぞはうっかり目が合いそうになる。というか確実に人の目をのぞき込んでいる気配がする。緑シャツ黒スーツに緑の色が入った眼鏡は珍しいですか。珍しいかも知れないが放っておいて欲しい。

 そういう場合大抵は私は見返してしまうのだが、この人とは目を合わせたくないなぁ。しかしどこの誰か全くわからないおばさん(もとい女性)にじろじろ見られるのも気持ち悪いし、ここはひとつ遙か上方から地表を探るP3Cの如く観察をする。

 するとこの人、襟に大きな井桁マークのバッヂを付けている。これはと思いトートバッグをのぞき込むと同じマークの入ったクリアファイルがいくつも…。これはいわゆる○○セイ・レディである。

 生保のヒトが電車通勤なんてするのかと、地元で勤務で働くために一時期生保営業をしていた妻を持つ身としては違和感を覚えたりするのだが、考えてみれば「首都圏第2営業部」とか所属だったりすればそりゃ電車通勤ぐらいするわな。

 で、話はそれまでである。

 今日もどこぞの大きな企業では、受付でアポを取った地味で露出の高い服の臭いの濃いおばさん(もとい女性)が、人の目をのぞき込みながら「ハゲとイヌ」キャラクターの印刷されたハンドタオルだかを手に営業に訪れているのである。


'06.10.13  随筆

シューキョー

 四方の扉を開け放した居間にインターホンの音が響く。娘の髪を結わえていた妻は顔を上げて「うちよ」と言う。“部屋続き二世帯住宅”の我が家には2組のインターホンがあり、時々どちらの世帯の物が鳴っているのかすぐには判別できないことがある。(なんだよ俺が出るのかよ)と休日とはいえ昼間っからビールを啜っていたくせに私は面倒そうに腰を上げる。

 モノクロのディスプレイには中年の女性とスーツを着た若い男が映っている。休日の昼間に古めの一軒家が並ぶ私道どん詰まりのこんなところを歩き回るにはふさわしくない組み合わせの2人だが、どういう2人かは一目瞭然である。

私 「はい。どちら様ですか?」
女性「最近増えている世界の不幸な出来事についてお話しさせていただきたいのですが」
私 「私も多くの出来事に心痛めていますが、その事について見知らぬあなた方と話をするつもりは全くありません。お引き取りください」
女性「ではこの冊子をポストに入れさせていただいてもよろしいでしょうか」
私 「興味がありませんからやめてください」
女性「そうですか。それでは失礼します」
私 「ご苦労様です(チッ。結局名乗らんかったな)」

 ああつまらん時間を過ごした。昔のように般若心経でも唱えてやろうかと思えど、そもそも今はもうほとんど覚えていないのだった。

 妻が何かと訊くから「シューキョー」と答える。興味なさそうに「そう」とだけ言うと髪留めのゴムをくるくる巻き続ける。私だって興味ないわい。

 うちを訪れる人の大半は宅配便の配達で、あとはご近所程度である。宅配便は妻の注文した地ビールや妹の漫画か何かを手にしているし、ご近所は大抵回覧板を持っている。鞄を抱えてやって来るのはこちらが呼んだ何かの業者に限られる。

 鞄と言えば、自分の鞄が最近ちょっと具合が悪い。修理に出さねばならないか。面倒だなぁ。何もやる気が起きなくなり、それではいけないので娘達を連れて公園に行くことにした日曜日の昼だった。

読書 三浦しをん「しをんのしおり」 新潮文庫

 あー、やっぱりヲタなヒトだったんだ。それもBL好きの。いやだなぁもう。面白いし文章も嫌いな感じじゃないから良いけど。表紙の柄が大昔の西友の包装紙の様で素敵。


'06.10.11  随筆

13+7=20

 秋の週末は何かとイベントが入っている。2週続いた娘達の運動会が終わりほっとしていたが、この連休には法事があった。

 父の十三回忌と祖母の七回忌を一緒に行う。と言っても例によってほとんどは母の仕切で、しかも今回はうちと妹親子の計9名だけの参加である。だから気が抜けていたのか母以外皆が数珠を忘れてしまった。そのうえ読経が始まり卒塔婆を見ると、十三回忌は祖父の戒名になっている。うわぁいくらなんでも父の十三回忌を間違えて覚えるかよと自分の記憶違いかと焦っていると、焦った口調で隣の母が耳打ちをしてくる。

「戒名、あれおじいちゃんのだよ!」

 なんと坊さんが間違えていたのだ。焼香の段でその旨告げる。母は何だったらおじいちゃんのも一緒にやろうとか言い出すが、初七日はともかく、いくらなんでも十三回忌の前倒しというのは聞いたことがない。坊さんも慌てて卒塔婆やら何やら(そう、「何やら」だ)を書き直し始めた。おかげでお堂の中は4匹のうるさいのが走り回る羽目となった。さすがに初めから繰り返し二重に読経したりはしなかった。

 帰路は墓地近くの食堂に。確か父の四十九日の法要の時に利用した店だ。街道沿いによくある食堂で、2階の座敷を予約すると客は私達だけだった。法事の食事ではなく普通の定食を銘々が頼む。

 嫁いで隣の市に暮らす下の妹と会う度に思うのは、髪型や化粧やら見た感じが昔で言うところ「シロガネーゼ」みたいになっているということか。兄妹もたまに会うと面白い。法事で子供2人が幼稚園の制服だから余計にそう感じるのか(うちは保育園なので制服はない)。元々少ないので親族で集まる行事のほとんどない当家にあって、この子達ともいつまで顔を合わすのかなぁとふと考える。

 「おっちゃ〜ん」とか言って飛び寄って来て私にデコピンを食らわそうとする甥っ子が「ご無沙汰してます」とかボソボソ口にするのもすぐだろうな。

読書 伊藤たかみ「ミカ!」「ミカ×ミカ!」 文春文庫

 この2作は双子兄妹のそれぞれ小学、中学時代を描いたものだ。描いているはずなんだが、どうも本人が書いているぽい。え? 嘘臭いですか。後の作品2作を既に読んで芥川賞作家と知っていてそれはないでしょうってですか。そりゃそうでしょうね。でもまずこれから読んでみてください。ホントに。


'06.10.5  随筆

ハッチェル特急楽團

 電車でたまに床が汚れている車両に出くわしたりする。「うわ、厭だな」と思い離れた場所に移ることはあるだろうが、「おい、ここ来て見ろよ」と仲間を呼んでわざわざ踏ませてみたり、「なんかベタベタすんだろー」だなんて騒いだりというのは、まるでコドモがすることだし普通の大人はしない。

 そういうことをしたりする数少ない知り合いがいて、それがタケリコ・タケーニその人である。

 なにせ自称「プロの酔っ払い」であるからしてそれ位は当たり前なのだが、私は幸か不幸かなぜか至って礼儀正しい状態のタケリコ氏しか知らないのである。卑怯だなと思うのは、彼が銀行員や商社マンでないところである。なにせ彼は絵描きでミュージシャンなのだ。パリで街娼を買おうが、朝方不細工カップルに「ブスだなーッ」と罵声を浴びせようが、それも絵になってしまうのである。しかも妻帯者。ある種「酔っ払いのエリート。選りすぐりの酔っ払い」と呼んで良い。「血筋が良い酔っ払い」という言い方すらできる。

 そこへいくと私なんぞは酔っ払いの劣等生だ。普通のサラリーマンだし子供もいるし住宅ローンも抱えている。みっともない! しかも、そういう人の連れ合いは普通「飲み過ぎには注意してくださいね」位の言い様だろうが、私がある朝に妻から受けたメールには「飲み過ぎは“勘弁してください”」と書かれていた。全く劣等生である。

 そのタケリコ・タケーニ氏の参加する「ハッチェル特急楽團」の新譜が出た。彼らの提唱する「ワイド音楽」というカテゴリーを理解する程には音楽全般の造詣のない私だが、それがいかに馬鹿馬鹿しく楽しげな音楽かは実感できる。ビールを浴びながら「おい酷ぇーな」とか賛辞を述べそうである。少なくとも仕事中に聴いては駄目。

 ところで、小官のことを「ナチの旦那」と呼ぶ彼は私の本名を知らないかも知れないが、よく考えたら私も彼の名前を知らない。なぜなら2人とも酒場の酔っ払いだからだ。ともあれタケリコ・タケーニ、万歳!

♪ハッチェル特急楽團


CD付き「特急新聞」第弐号。同じレイアウトが連続するという、エディトリアル界に一石を投じるアバンギャルドな構成に息をのみ、「ゴロツキ日記」が2本載っていることでタケリコ氏の何と絶倫なことよと驚き、それが乱丁とはついぞ気がつきませんでした。2,000円ポッキリ。BAR BLACK LUNGでも販売中。これ1枚でタケさんのツケがビール約3杯分清算される。

'06.9.26  随筆

差し支えのある1日

 私は仕事中と行き帰りでは眼鏡を掛け替えている。その方が気持ちの切り替えが上手くできる気がするし、そのお気に入りの眼鏡があまり仕事中に掛けるタイプではないということもあるからだ。

 ところが夕刻に妻が帰宅すると、オンタイム用の方の眼鏡が置きっ放しになっている訳だ。あの人はこれを置いて一体どこに行ったのだろうと。彼女の胸の内に、容易には口に出来ない不穏な気持ちが拡がっていく。…ということは多分全然なくて、勿論それは、私が単にオンタイム用の眼鏡を置き忘れて出社してしまったというだけのことで、会社に行った振りをしてどこかに行ったわけではない。もっともその眼鏡に気付こうが妻の扱いは娘のたまごっちと同じかも知れない。

 差し支えがあるのは言うまでもなく私自身の方だ。つまり結局、私は1日オフタイム眼鏡で勤務することとなってしまったのだ。ツーポイントで、レンズに薄いグリーンの色が入ったやつである。

 社内ではまあいいとして、得意先にはとりあえず眼鏡なしで行く。どうしても必要な局面になったらかける。あえて説明や弁明はせず、訊かれたら答える。これでいくことにした。こういう日に限って、校正届けはあるは、進行報告はあるは、編集会議はあるは。帰路は気持ちの切り替えがどうとかいうレベルではなかった。

 そんな訳で、馴染みの酒場で一息ついての帰路となった。それはいつも通りでしょうという声が聞こえる気もするが。久しぶりに勤務先近くのバーに寄った。チェーンだし知った顔もいなくなっているかと思えば、良く知った顔が私服で呑んでいた。久々の82 ALE HOUSE神田店、なんと1周年の日であった。ピンチョス2本をつまみつつ店長とS嬢にお祝いを言いながら数杯呑んで後にした。

画像の方はまた別の日の、それも地元Hの画像。珍しくママ+M嬢・K嬢の2人体制。M嬢がぜーんぜんセクシーな格好でないのが残念。にしたって私はもう少しマシな写真を撮れんもんかね。

 


読書 三浦しをん「ロマンス小説の七日間」 角川文庫

 初めは鬱陶しかった“劇中劇”が、主人公の“アレンジ”で面白くなってくる。しかし実は、それと現実のリンク具合が読み切れなかったり。「世界の終わりと〜」辺りと比べて考えてはいけなかったのだろうけれど。


'06.9.26  随筆

適当に編集してください。

 予定より1週間ほども早く原稿が上がってきたので私は油断してしまった。ああこれで片面は片づく。あとは中身を読んで、イラストレーターに依頼する前に得意の確認を取るためのラフを自分で描けば良い。A4ペラの季刊社内報の類であるが、その得意はなぜか外部委託の部分が多い。しかも実質の編集長はその外部の私になっている。結局その原稿をちゃんと読んだのはその日の夕方になってからだったが、半ば帰り支度を始めていた私は思わずうなだれた。とにかく何を書きたいんだかわからない文章だったのだ。

 3段に分かれる600字ほどの文章は、1段目で主題となる言葉の語源と“在り方”について書かれ、2段目ではそれと関係ない別の“在り方”が書かれ、最後にそのどちらとも関係なさそうな具体例が中途半端に結びなく書かれていた。あまりに酷い上に字数オーバーだ。

 「適当に編集してください」というのがその人の口癖である。こういう場合の「編集」というのは流れに対して行うものであって、書き上がった文章における主題の“在り方”を決めるのは編集とは言わんだろう。

 訊けば推敲なしで送られたのだそうだ。推敲してもこんなじゃないかというのは穿った見方だろう。自分の文章だって推敲なしでは酷いことになっていることもある。推敲なしで伝えたいことがちゃんと伝わる文章の書ける人は、多分話してもすっきり意志の伝えられる人なのだろう。まあ自分はそうではないし、その得意の方も打ち合わせではよく脱線している。そう考えれば「編集」するのも暖かい気持ちでできる。

 結局私は、例えば「湘南の海の家に於けるのビールの注ぎ方」を「中野区の住宅地にあるバーに於けるドラフトビールの注ぎ方」にまで翻訳する様にして、文章を組み直した。…こう書くと訳のわからなさが伝染している気もする。

 それにしても酷い文章なんだよな。頼むよまったく。

'06.9.12  随筆

目白駅の娘

 通勤時間帯を少し過ぎた頃、目白のホームではよく、制服を着た小さい子供を連れている若い母親を見掛ける。ピークの時間帯を過ぎているとは言え、朝の通勤列車ほど厭な雰囲気の場所はない。行きたくもない場所に行く人間が詰め込まれているのだから当然だが、そんな中で小さな子供を守り、毎朝こうして子供を送り、夕刻には迎えに行っているのだろう。大変なことだと思うが、それよりも気になるのはその様に"大切"に育てられた子供はどんな大人になるのだろうということだ。見てみたい気もするし見たくもない気もする。

 あまりそういう知り合いは思い当たらないのだが、関連して印象的なある女性を思い出した。

 彼女はワーカホリックでないかと思えるくらいとにかくよく働く。自分の会社だから働けば働くほど儲かる。よほど切羽詰まっているのかというと全然そんなことはなく、貧乏でないどころかかなり裕福だし不労所得もある。

 なぜそんなに働くのか彼女に訊ねたことがあった。子供を育てる間、全く働かなくて済むくらい貯めるつもりなのだそうだ。そして子供には自分が育てられたのと同じだけのことは最低限してやりたいのだと言う。彼女は裕福な子供ばかりが通う学校に毎日クルマで送迎されていたそうだ。そのように育てられた子供が彼女のようになるのはかなり希な事例なのではないかと思う。いや、ほとんどの場合そうはならないんじゃないか。

 私はどちらかと言えば“お嬢様学校”な私立校出身の女性と付き合うことが多かった気がするが、子供に自分と同じ環境を与えるためにがむしゃらに働いている女性というのは見たことがない。それに、目白駅で見掛ける母親達は誰も彼女には似ていない。

 彼女はいま独身である。イイ女なのだが、でもやはり、彼女に釣り合う男というのも私にはちょっと想像しづらい。

読書 平 安寿子「もっと、わたしを」 幻冬舎文庫

イケてないが生きていく。そういう普通の人達があっさりしっかり描かれている。気付くと、ダサオヤジも勘違い小僧もワガママ馬鹿母も認めてしまっていたりする。


'06.9.8  随筆

Yondaは良いが…

  仕事柄、景品の案を考えていることが多い。大体が自分自身が景品に釣られて何かを買ったり食べたりすることは希なのだが、さてそんな自分でも欲しくなる様な物といったら何かと考えると、むしろマイノリティな自分の趣味嗜好を確認することになってしまうだけで何の役にも立たない。iPod欲しくないし、DS遊ばないし、旅行なんて勘弁して欲しい。一方私の欲しい物は私の同好の志が欲しがるだけだろう。なんにせよ無難に脈絡なく案を並べていったところで「あれもこれも」の袋小路に陥るだけなので、強引な理由付けで統一して並べる。

 何かを買ったりして応募の権利を得るタイプの懸賞を「オープン懸賞」と言い、大雑把に書くと「景品の金額は利用額の最大20倍」と決められている。600円のラーメンで12,000円の中華調理具セットとか、レシート合計3,000円分で60,000円の海外ブランド小径自転車とか。

 ところでオリジナルグッズというのは既製品に比べれば原価が上がるから金額の割にはしょぼい物になりがちである。さらにセンスが悪くて「こんなもんはいらんなぁ」と思われてしまうことも多い。出版各社の文庫本フェアはそういう景品の宝庫だ。見たこともない新進若手俳優が得意気に写ったプリペイドカードとか、いらんよなぁ。しかも前出の決まり事からくる単価設定の関係で、何十冊もの文庫本を買わねば応募できない。

 それでも、たった2冊の購入で、しかも応募者全員に当たる景品もある。それがこの「新潮文庫 夏の100冊」である。しかし応募券の類を集めることに熱意の保てない私はどうしたらいいかというと、外部委託とした。かくして優秀なH嬢の功績により私の元に2匹のパンダが届いた。しかしやっかいなのは前段の通り、オリジナルグッズというのはしょぼい物になりがちということ。これ、売っていたら買うか? …現物見せられて、くれると言われても躊躇する気がする。

デスク脇の文庫の山。


中国製中国熊のぬいぐるみ。新品なのに薄汚れ、縫製は粗く、妙なところから糸が飛び出ている。ある意味某国を象徴している様な…うにゃむにゃ。

読書 木尾士目「げんしけん」7、8 講談社アフタヌーンKC
 これは読書とは言わないか。6巻の後が出ているのをつい最近ネット上で知る。従って書評を先に読んでしまった。何やら7-8巻には批判的な意見が多かったが、それは「おたくライフスタイル漫画」だった本作品が、この2巻ですっかり恋愛物になってしまっていたかららしい。しかしどんな生活にも恋愛はあるだろうし、実のところそれはおたくでも同じだ。しかしそれは自分がその範疇にあったからわかるだけかもしれないし、とすればそうでない人には違和感が強いのかも。