随筆/日記
公文書

'13.12.26  随筆 

山手線

 「山手線でまだ降りたことのない駅が三つありました。今度降りてみよう」。だなんてツイートがあっても普通スルーされるだろうし、例えそれを村上春樹がエッセイに書いていたからって「どうせ降りないだろ」位にしか思わないだろう。いや、実際書かれていて、私がそう思ったのだけど。

 そして村上春樹が床に棄てたピーナッツの殻よりも無名な私がそう書いたところで、まあ反応は同じどころか皆無だろう。

 それはともかく、そういえば山手線で降りたことのない駅は私にもある。私は、勤務先も殆どの得意先も山手線沿いなので、平生の勤務で山手線圏外に出ること自体あまりなかった(最近ちょっと違うが)。だが一方で山手線の駅全てを利用しているという訳ではなく、実際に用事があって改札を出た事のない駅もある。

 特に池袋〜上野間は通勤で毎日通っているのにも関わらず意外な程に縁がなく、大塚・巣鴨・駒込・田端は全く無意識で通過しているために、ぼうっとして乗っているとどの駅をどんな順番で通っているか分からなくなることもある(それどころか今駅名を挙げる際に大塚を忘れていた)。

 「途中下車の旅」とか「隠れた銘店」なんて類の番組の様な、何かそれ的な目的でもなければ、降りる必要もない。降りた事が一度だけあるという幾つかの駅も、近くに得意先の店ができたとか、事故で電車が止まってそこから振替輸送のために別の駅に向かったとか、せいぜいそういう理由で降りた程度だ。

 日頃降りない駅に降りたところで他とそう変わらないだろうと考えがちだが、降りれば意外と他と違う街で発見があったりもする。発見があったから何だということでもないのだが。

 「まだ新たな発見があるかも知れない街をいつも通り過ぎている」という感覚も、それはそれで良いんじゃないかと思っている。発見があるなんて言う感受性のあるうちは、なのだろうが。

画像は亡父コレクションのNゲージ。でも実際乗った事あるよ。


'13.12.13  随筆 

カミゴミ
 冬場の陽の光は斜めに射して来るものだが、それにしても随分と横から射してくるなと思いながら、乗っている列車の床を照らす陽を眺めていた。そう書くと何やら情緒的な感じに読めるが、実際にはむしろその逆だ。斜めに射して来た陽は、ゴミの陰をデフォルメして床の上に拡げる。見たくもない、その存在に気付いてもいなかった物を、殊更に強調して見せるのだ。えらく不快な存在であり、迷惑なリアリストみたいなものだ。

 電車の床の上などというのは普段気にしないものだろうし、その様に作られている。座席に座っていて、見るともなしに視線を落とすことはあっても、子細に見つめ直す人もいないだろう。空き缶が転がっていると、ああこちらに転がって来たら厭だな位は思うだろうが。電鉄会社の方も出来れば意識して欲しくないから適当なグレーなぞを配色しているのだろう。つまらない軽量鉄骨住宅の屋上に貼られた防水シートみたいだ。あるいは同一素材なのかも知れない。ちなみにうちの屋上もそうなっているが。

 ところで私が子供の頃に乗っていたバスの床は木製だった。何重にも塗られたワックスが独特の匂いを車内に充満させていて、それだけで酔ってしまいそうだったし、木目とは違う斑が塵埃の存在を感じさせて不潔な感じがした。公園の類で見掛ける路面電車などで木製の床を見るとどうしてもあの感覚を思い出してしまう。

 電車の床を見つめていつも思うのは(あれ? いつも見てたのか)、髪の毛がやたら落ちているという事だ。人というのは須く髪を落としながら生きるものなのだろう。そんな列車が日に何本も停車してドアを開けるのだから、ホーム下の線路なぞは随分と汚い事だろう。最近多い気安くホーム下に転落する人々は、さぞ神経が図太いのだろうと想像してしまう。

'13.12.2  bicycle  随筆 

週末修理と「吉田うどん 侍」
 この週末ぽっかりと予定が空き、土曜は暫く行ってなかったカット屋へ。この際にJEDIのチェーンが頻繁に外れて煩わしかった。直し切れていなかったらしい。ハンガーかSORA本体か。RDはアルテが余っているが…アームの長さが合ってなかったはず。(後日確認:それ以前に8速のシステムでRD6600は使えない)

 気を取り直して翌日乗るためにRC20の整備。暫く近所しか走っていない。明らかに汚いチェーンの洗浄をしたらまるでヘドロ。これでは確かに変速乱れるなと、スタンドで回していたら途端にレバーの手応えが抜けてシフトワイヤーが切れた。変速おかしかったのはこれか。前回同様厄介なSTIレバーの中でタイコ近くが切れた。買い置きは無く近所のアサヒへ行くと、PV商品しかない。仕方ないので翌日の間に合わせのため購入。タイヤももう限界のはずだし、これは近日まとまった出費になるな。'10年1月の事故の時に一通り替えて以来だからいずれも5千キロ位だ。

 日曜は以前に知人杏東ぢーながツイートで紹介していたうどん屋に行くつもりだった。鎌倉街道で綾部原トンネルを抜けていつもは直進する新袋橋を右折したちょっと先にある。ライド目的地としてはちょっと近い。

 「侍」は都内ではあまりないという富士吉田名物の吉田うどんの店。尤も私がそういう事で行く訳がない。とにかく建て構えが怪しい。どう見ても飲食店には見えない。いや、店に見えない。入り口も「営業中」の木札がなければそうは思えないし、木戸を開くとすぐ障子戸というのがまた。三和土があり靴を脱ぐと、右奥の部屋のこたつから店主に「こちらへどうぞ」と招かれる。店と言うより完全に人ん家である。雑然とした店内は独特の雰囲気ながら落ち着く居酒屋風。13時なのに幸か不幸か客は私だけで、それがまた変な居心地にさせる。

 メニューの方は、小平の糧うどんと較べてもうどんが太い。ほうとうの様な物を想像していたがそれとも違った。店名に相応しい無骨な一品だった。

この建て構えが何とも。ちなみに屋号は「吉田うどん 侍」。

噂通りの入口。両脇の古いクルマと周りの諸々が更に不思議な感じ。

入り口脇には店主の愛犬、姫ちゃんがぶるぶるしている。

「武士うどん」750円。無骨ながら具だくさん。個人的にはとろけたカキアゲは余計かも。あと猫舌の私は良かったが、もっと熱々で良いかとも。


洗浄皿から刮げ落としたグリス。

千切れたタイコ部分。バクテリアじゃありません。

シュワルベのバルブはキャップと一緒にコアが外れてしまう事があるので、ネジ留め剤が欠かせない。
ついでにルイガモも整備。錆と緩みだらけだった。


RC20の記録 うどん喰ってから走り回るもんじゃないよな。苦し。
12/1 走行時間2h14min/走行距離54.33km/平均速度24.3km/h/総走行距離12,298km

'13.11.25  随筆 

学校説明会

 この週末2日間は、高校受験を控える長女と学校説明会に行った。土曜に併願の私立高、日曜に第一志望の都立校へ行った。

 私は東京生まれの東京育ちだが、実のところ都立高のことは殆どわからない。二人の妹が都立に進んだためその周辺のことを知っている程度で、自分自身はどの都立も受けられない位内申が悪くて、受ける準備すらしなかった(成績はともかく問題児だったのだ)。尤もあの頃とはシステムが全く違っていて、うちの学区からは23区内になんか通えなかった(はず)。

 ともあれ、そういう意味では土曜の私立高は理解し易かった。うちから比較的近い中央線沿線の中・高級住宅地域内にある中の下位の私立女子高。「進学コースは頑張っていますが部活と両立できます」とか、「スポーツコースは厳しいですが和気あいあいです」とか、「成績足りなくてもこういうのを頑張っていればプラスされます」とか、要するに緩い。もしくはそう見せて受験生を勧誘しているのかも知れないが、見掛ける生徒も一様にちょっと幼い感じでのほほんとしている。でも、これはこれで良いじゃないかと思う。ただこういう私立高に有りがちな無闇にイベントを作る傾向は、財布が心配である。

 都立校の方は中の上くらいの学校で区内にある。都心だし制服の制約が緩い上に今年新校舎が出来たので、これは人気急上昇だなという“うんざりな好条件”だが、娘は文化祭やらで既に中を見ており、生徒の雰囲気が良くて選んだのだと言う。若干ラフな生徒も見られるが、中程度以上の学校でラフなのはむしろ好ましいだろう。

 個別相談には娘が積極的だった。質問は部活動の硬式テニスの事だった。どちらの高校も、娘にとっては活動が緩過ぎる様だった。でもそれは自分で盛り上げると良い。今の中学だって、元々そう大して強い学校でもなかったじゃないか。何かを変えていけば良いと思う。そのための高校生活だよ。

 取り敢えず、受かれ。できれば都立高の方に。

ちなみに我が栴檀林小隊こと某高美術部は、小隊員入部当時(30年位昔)は部員がほぼゼロだった。そこから学祭で8mmフィルムでの自作アニメ壁面投影上映まで持って行った。アニ研じゃなくて美術部ではという突っ込みはナシで。


読書 大道珠貴「立派になりましたか?」双葉文庫

こちらは末端高の特別学級の卒業生の話。彼らの44歳の今。あるいは、生きるのに不自由な人達の自由な今。相変わらずの大道節で、初手からおちんちんだの何だのではあるが、まあ言葉にしないだけで、自分だっておちんちんだの何だのなのだ。立派ではない。



'13.11.9  随筆 

二十一時四十三分

 21時43分。その様に時間を意識するのは、私が酒呑みだからではないか。そうでなければ、その時間は家で風呂に浸かっているかも知れないし、借りて来たDVDだかBDだかを観て時間を潰しているだろうが、いずれにしても酒場にはいない。帰るべき場所以外の所に居て、帰るべき時間を推し量っているからこそ気になるのだ。

 酒場とは時計が無い場所だという。時間を気にせずにゆったりと時を過ごせる様にという事でその様にしている店は多い。酒場について書かれた“ものの本”には多分大抵そのように書かれているし、実際まともな酒場には、本当に時計は掛かっていない。銀座、歌舞伎町、ゴールデン街、方向性は様々なれど私の通う酒場のある街では、確かに時計を見掛けない。

 しかしね、実のところは酒場に時計を置かないでいる実質的な意味なんかないんだ。確かに腕時計を見つめながら呑んでいる奴はいない。しかし、いま酒場で携帯電話の画面を覗かない奴は滅多にいない。それどころか、店に入って来てから誰とも口をきかずにずっと携帯の画面を見つめ、延々キーだかキーの形をした画像パーツだかを指でなぞっている様な客ばかりだ。

 何も批判・非難をしている訳ではない。それどころか、どちらかと言うなら自分もそちらの類の人間だろう。

「Sさん、いつも誰にメールしてるんですか?」
「メールじゃないです。ツイッターですよ」
「どっちでも同じでしょ」
「それはそうですね」

 そうでもあるし、そうでもない。でも、どっちでもいいやという意味で、どっちでも同じである。

「キャバの娘がメール寄越してね、俺に会いたいから今度のママの卒業記念日に来てってさ」
「それ、[会いたいから]までの文章関係ないでしょ(笑)」と私。

 何と繋がっているか。繋がっていて嬉しいかは人それぞれだ。いろんな人がいる。真っすぐ家に帰っていては知り様も無いだろう。知る必要も、ないんだがね。


'13.11.8  随筆 

市道まで

 朝、どうにも調子が優れなくて、遅めに家を出ることにした。その日は調整次第では休んでも大丈夫な程度の仕事しかなかったが、週末なので締める事もあったし、社長が何やら打ち合わせをする様なメールを寄越してもいたので、昼近くにはなったが出ることにした。

 家の前の私道から市道に出る道の途中で定期を持ち忘れた事に気付く。僅か百数メートルの事だが、昼の日差しの中を家に向かうと、途端にやる気が失せて行く。いや元々無かったかとも思いつつ、これで出社をやめたら病気みたいだなと考える。しかし幸にも私は病気ではないので、定期をポケットに突っ込み玄関に鍵を閉めて家を出た。

 数歩歩いて振り返ると、住宅展示場にある様な大きな家があった。何だ、誰の家だろう? と声には出さず言ってみるが、それこそ言うまでもなく自分の家である。自分が建てて、自分が家族と住んでいてる。

 私道には年寄りの住む一戸建てが多いが、それでも所々に新しめの家はあり、割合最近越して来た世帯もある。自宅から十軒も離れると会釈くらいしかしないが、その新しめの中の一軒に声を出して挨拶して来る夫人の家がある。三十そこそこだろうか、越して来てからの短い間(と言っても数年は経つが)に二人目三人目の子供が出来ていた。朝に市道まで幼稚園バスの見送りに出て来る夫はがっしりと背の高い男で、何もかも順風満帆に見える一家だ。通り掛ると庭に面した駐車スペース側の戸が開いており、私道から部屋が丸見えになっていた。

 こういうのは、覗くのも覗いている様に人に見られるのも厭なので、だけれども視界の端で見て通り過ぎる。居間か食堂か、一面が黄色とオレンジで装飾され、そこに緑や青の小物が掛かっていた。うんざりした気分になる。

 そこから市道まではすぐだ。さすがにもう幼稚園の送迎バスが止まる時間ではなく、不動産屋や植木屋と、老人の運転するクルマが行き交っていた。


'13.10.18  随筆 

発掘のパスケース・喪失の自分
 7月に無くしたパスケースが出て来た。案の定、家の中にあった。聞けば洗面所のゴミ箱の脇にあったのだそうだ。通常ならその場所でポケットの中身を落とす様な動作はしないので全く想像していなかった上に、うちでは洗面所のゴミ箱脇に関心を持つ人間は稀なのである。いわば我が家の死角か。洗面所には毎日立つのに。

 茶色い革のパスケースは埃まみれでうっすらと黴びてもおり、これはもう使わないかななどと考える。いや元々だいぶ傷んでいたのではなかったか。少々湿度は高いかも知れないが家の中に転がっていたのだし、2ヶ月ちょっとしか経っていないのだから、この場所で傷んだのではない。

 当然中身はそのままだったし、汚損もしていない。しかしパスケースよりむしろ中身の方が要らない物だった。要らない物になっていた。

 PASMO定期はすぐに再発行をしていたし、運転免許証もヒマを見て再発行した。得意先商業施設のポイントカードまで再発行していた。敢て言うなら15年程使っていた伊東屋の用紙規格一覧カードと、1690P貯まっている82ALE HOUSEのポイントカードは戻って来て良かっただろう位か。しかし、一度しか得られない掛け替えのないものはなかった事になる。

 例えば自分が失踪して、何ヶ月か経って現れるなんて事があったとしたら、このパスケースみたいになってはいまいか。ふとそんなことを考えてしまった。

 職場は物凄く困ることになるだろう。社内の他の人が代わりには処理できない案件はかなりあるはずだが、でもそれで潰れる程でもないだろうし、違う仕事や違う得意を見つけて何とか回るだろう。家族はどうなるかな。妻は動じないだろう。子供達はどうなるんだろう。同居の母と妹は? 父が亡くなった時とは全然違うだろうな。

 黴だらけのパスケース1つで何やら憂鬱な気分になってしまった。呑んで寝るか。

ご参考までに形ばかりの再発行費用。PASMO定期500円、運転免許証3,600円、得意先商業施設のポイントカード100円。

読書 藤沢周「陽炎の。」文春文庫(何度目かの再読)

駄目な時に読み返す感じだな、この作品。失格社会人に、気違い女と少年の性欲。そして繰り返す喪失。


'13.10.11  随筆 

品格ある自分に近づくための補修
 昔の漫画ではステロタイプな貧乏人の表現として服の継ぎ接ぎというのがよくあった。頻繁に見掛けた気がするのは昔の漫画は貧乏人が出てくる事が多かったのか、あるいは現実にも貧乏人が多かったのか。昭和四十年代生まれの私の周りにそんな人はいなかった様な気がするが。

 一方で、服の補修が品格を上げるケースもあるらしい。先日観た映画か何かだったと思うのだが、地味な身なりながら肘充てのあるジャケットを着た人物を、品質の良い物を大切に補修しながら着続ける家柄の良い人物だと言い当てるという場面があった。家柄はともかく、ヨーロッパ等では確かにそういう風潮もあるかもしれない。そして、手入れ良く長持ちさせているのが美徳とされるケースは、革製品に顕著だろう。靴の修理屋は時代が変わってもなくならない。

 ただ、物が安くなると、直してまで使い続けなくなるという事はある。その意味では靴とて例外ではない。だからこそ逆に今、安物であれ靴を修理して使い続ける行為によって、少しでも品格ある自分に近づきたいと願うのだ。…あれ、本当にそうかな? むしろ貧乏性…と言うより単にモノ弄りが好きなだけじゃないのか?

 という訳で、また靴底の修理をした。ちなみに幾らだったか忘れたが合皮の安物だ。でも、湿気に強いし簡単にバラけないし、これはこれで重宝するよ。それでも靴底の減らない靴は無い。

 補修は確かまだ2度目の様に思う。ネタ用に撮ったのか画像が残っていてそれが今年の2月のだった。踵の外側が、表面のモールドは勿論無くなって、その下の硬いゴムも削れて、クッション層まで露出し始めたのでさすがに直した。真っ当な中年社会人としてこんな靴履いていてはいかんだろう。

 補修はセメダインのシューズドクターNを盛るだけだが、これでまた半年は保つだろう。でも人に指摘されて気付いたのだが、減ってるの踵だけなんだよな。どんな歩き方してるんだか。

セメダイン「シューズドクターN」
いつも思うが、ここはAmazonのアフィリエイトリンクでも貼っておくべきなんだろうな。誰も買わないか。

 


駄目な社会人の駄目な靴底


まあ履いてる本人も擦り減ってる訳ですよ


間違って何か踏んじゃったみたいな補修(笑)

'13.9.17  随筆  gun&military 

台風の日に、風立ちぬ
 週末が近づくまで、三連休があることを気付いていなかった。そもそも担当案件用に自分が作ったスケジュール表が三連休になっておらず、うっかり納期に間に合わなくなる所だった。そしてそんな週末は、特にやる事もなかった上に台風襲来である。

 と言っても3日間呑んだくれて寝ていた訳ではない。週末に電車で都心部に出ることはないのだが、日曜は珍しく映画を観に行った。家人のお出掛けに取り残されたということもあるが、家で寝るか呑むかばかりではどうかという気もするし。

 観て来たのは話題の「風立ちぬ」。以下、微量のネタバレにて失礼。

 期待過大故か、肩すかし食らった感じだった。妄想と喫煙のシーンが多過ぎるとかそういうのはまだいいとして、離れに住まわすためだけの伏線かと思える緩過ぎる特高警察や財閥系企業の社員にしても優雅な避暑地の長居などは、どの程度史実なのか疑問に感じる程。

 絵も何だかなぁと。服は時代を表すが、ジブリの登場人物が着るスーツのフワフワとした質感や締まりのないラインは戦前を描くのに違和感を覚える。所謂「テレコム顔」的な服の質感なのだろうか。

 話変わるが、この作品は零戦(と九六艦戦、雷電)の生みの親、堀越二郎を肯定的に描いているとして韓国のメディアが非難したりもした。しかし後日の“謝罪すべき”発言のためか、今度は韓国のメディアは引退宣言の際「安倍政権の右傾化の歩みに失望したのではないか」などと自慰的妄想を発表している。

 軍や兵器について知りたいという欲が、道具やその成り立ちを知るに従い、強く肯定したり否定したりする。裏に人の脆さを見る。興味を持ったが故に忌み嫌ったりもする。韓国にはミリタリーマニアという人種はいないのだろう。だからその矛盾に気付きもしない。宮崎駿はまさしくそういう人種の代表格であり、それ故のこの作品だと私は考えている。

 何にしても、映画としてはいまひとつピンと来なかった。

手持ちで関連情報がありそうな資料を発掘。毎日新聞社刊(1980)「別冊1億人の昭和史 日本の戦史別巻(5) 兵器大図鑑」…にしても古いなぁ。


堀越二郎を「九六艦攻」の設計者としているが、「九六艦戦」の間違い。あちらは複葉で空技廠製。


夢想が多くどこからが実在の飛行機か“陸専門”の私には分かりにくかった。逆ガルの試作機は九試単座戦闘機として実在。後の九六式艦上戦闘機だが、フォルムは大分違う。(画像出典:Wikipedia)



'13.9.15  随筆 

消臭芳香剤
 うちのトイレや洗面所には、使わない芳香剤がいつも転がっている。備えで買い貯めているのでも間違えて買ってしまった訳でもない。物は全てK製薬の製品で、貰い物である。

 そのK製薬の株を母が持っている。一時期流行った株主特典目当ての小口投資である。母は同様に、孫のためにとか言って玩具メーカー株やアミューズメント施設株も持っている。とにかくそれで時期になると特典として割引券やら製品の詰め合わせが送られて来たりするのである。

 母がそれで嬉しいのなら構わないが、色々送られて来る物のうち、芳香剤はまず使わない。そもそもうちは芳香剤を使う習慣自体がない。それに、送られてくる物だから、好みの香りとは限らない。開封もしないから実際には分からないのだが。結局それらはなぜかうち世帯の方に押しやられて溜まって行くのである。

 戯れに1つ書斎に置いてみた。ビールの空き缶やウイスキーの空き瓶を置き放しにするせいか、油まみれの大量の金属やプラスティック(物の名称は書かない)があるためか、以前次女に臭いと言われた事があったからである。いくつかあるうち、シンプルで比較的鬱陶しさのない固形石鹸を模したデザインで石鹸の香りとかいう物である。

 置き始めてまだ1週間経っていないが、そろそろ駄目な感じだ。気持ち悪い。眠りが浅い気がする。酒が不味い。これ棄てちゃ駄目? どうやって棄てれば良いのだろう。どこかに書いてある? メーカーサイトには推奨の棄て方が載っているが、少量なら新聞紙に吸わせてビニール袋等で密閉して可燃ゴミとある。開けたばかりだよ、少量じゃないよ。

 燃えるゴミとして出して、回収後に途中で破れたら周りがかなわんなぁ。これで生ゴミの匂いがどうにかなる訳でなし。そうして考えたら、香水なんかどうやって棄てるんだろう。

 尤も、私の部屋は「これどうやって棄てるんだろう?」という物ばかりな訳だが。

読書 平安寿子「風に顔を上げて」集英社文庫

何冊も読んでるのになぜだか文体が鼻についたな。文体如何の話だったか? 駄目でも、弱くても、生きていくしかないんだよという、そこにはいつも共感する。