随筆/日記
公文書

'12.12.24  随筆 

しかし、真っ暗ではない。
 三連休で最終日イブという今年のカレンダーは、お店の人的にはどうなのだろうか。勿論わざわざ出掛けて行く様な店は変わらないとして、流れついでにみたいな場所だとどうだろう。その連休前の週末、街はおとなしいものだった。給料日前で降雪予報のためか。こちらはつい油断して遊び過ぎてしまった。ボーナスもなく給料日前なのに。

 そんな次第で土曜日は昼頃まで寝ていたが、次女の「大変! 助けて!」の叫び声に起こされる。どうせカメムシだろうと階下に行くと、居間は妻と長女の取っ組み合いでめちゃめちゃで、その末にマウント取られた長女が叫んでる。何だこりゃ。結局隔離した長女の監視役で半日居間に。好きな音楽番組をぼけっと眺めてなんとなく懐柔していくのだが、こちらは暇なので掃除。半年に一度レベルの綺麗さになる。

 翌日、生活時間帯をずらして長女は半日ふて寝。妻はテニスへ。次女もんちゃんと庭でボール蹴り。しつこく誘うので嫌々つきあったのだが(!)、これが不思議なほど球を蹴り返してくる。テニス教室でもラリーしてたし、少しはいろいろ出来る様になったかと感心してたら、いつの間にか泥団子作って遊んでいた。それでも小4女子か?

 連休3日目とか言っても、出だしがそんなだからそんな調子。買い物に出掛ける妻に缶ビール(実際には麦ホ)を頼んだら、他の店の方が安いし、そんなの買うなら(ベアレン)クラシック呑んでくれと言う。セット物をネットで買うために、自分は呑まないクラシックの余剰在庫があるのだ。ちなみに旨いし高い(麦ホ3本分)。だからといって別に妻がツンデレな訳ではない。ただ、無駄金使うなという事である。…どっちがだよ。

 え〜、かくして3連休終了。娘達はどういう予定調和だか分からんが仲良く歌番組観ながら踊ってるし、一方私はベアレン呑みながら、長女が暴れて壊したノートPCの修理中である。

 陰極管は点灯せず。しかし真っ暗でもない。

見た目よりダメージあり。

ついでに電池が液漏れしていたエアコン用リモコンの修理。

親戚から送られてきた帆立の嵐。

読書 井上荒野「つやのよる」新潮文庫

理屈も理由もなくその状況になっているものだから避けられないし御し様もない男女関係。齢重ねればその事が分かるはずだが、逆にだからこそしようもなくそうなってしまう。ところで、帯に映画化決定とある文庫にはよく出会すが、困るのは俳優の画像が載っている場合だ。読む前から登場人物のイメージを規定されてしまう。すぐブックカバーを掛け、今回は印象に残す前に本文に取りかかれた。ちなみに、宿題の読後感想文を書く学生ではないのであとがきを先に読んだりはしないのだが、今回は特にその監督の行定勲氏が書いているからこれは遠ざけた。


'12.12.15  随筆 

状況的に優しいおじさん
 街中では、大概の場合私は周りより速く歩いている。健康がどうとかではなく、要するにそういう習慣だからだ。その様にして品川駅のコンコースを歩いていると、足下を転がって行くものがあった。小さな子供が駈けているのだった。

 「子供とはいえ、さすがに走っている方が速いか」と視界の端で眺めていると(顔と視線は進む方向に向けている)、これが何とも危なっかしい。進む方向を探りながら、後から着いてきているであろう同行者を確かめながら、彼なりの全力で走っているのだ。私の進路に交差してきた時はさすがに速度を緩めた。何せこちらの腰丈くらいしか背がないので、脚に挟み込んでしまいそうだからだ。

 「こんな場所で小さな子供を走り回らせておいて、不注意な親だな」と思いながら目的地の商業施設に入ろうとすると、その子も駆け込んでくる。風除室の自動ドアは大抵開きっ放しだが、センサーが反応せずに閉まる可能性もある。私は歩みを速め子供の横に出てドアとの間を通過する様に歩いた。

 当然子供はそんなことは気にせず更に突進して、そのまま上りエスカレーターに飛び乗りそうになった。「ここは状況的に子供を止める大人がいるべきだろ」と考えながら、私は身を屈めて子供の腕を掴んだ。視界には他に駆け寄ってくる大人はいない。「お母さんか誰か、いないの?」と話し掛けながら「別に同行者が母親とは限らんだろ。なんか保守的断定的で厭だな」なんて考えていた。

 尤もターミナル駅とはいえ場所柄高層マンション群があり、二千円超のランチに集う奥様連中も多い。ステロタイプにそんな感じの母親を頭に浮かべていたのも事実だ。すると何拍も遅れていかにもそんな感じの女性が彼女なりの早足で現れ、「すみません」と、しかし大して慌てた様子もなく微笑みかけてきた。

 自分が考えていた諸々の事もあって“正しい大人面”するのも違和感があり、「危ないですよ」とだけ言って子供を渡した。

読書 山崎ナオコーラ「この世は二人組ではできあがらない」新潮文庫

この人の作品は幾つか読んでいるが、これはどうもなんだかな。ちなみに出だし23P目に主人公の栞は「どうして全員が二人組にならなくてはならないのか、なぜ三人組や五人組がいないのか」と言っているが、実はテーマとは関係ない(W


'12.12.4  随筆 

耳鼻科のお年寄り
 週頭、朝の耳鼻科。外に子供乗せ付き自転車が停まっていないので安心して入ると、それなりに混んでいた。しかし診察券入れの脇に置いてあるノートに目をやると、チェック済みでないのは1名だけ。これは待たずに済みそうだと思っていると、受付の人に「ノートにお名前を書いて下さぁい」と言われる。

 長く通っているし、親子でも来るのだから、地元の耳鼻科の受付に位は初めての来院患者かどうかは判って貰いたいところだが、あるいは新しい人なのかも知れない。大きなマスクをしているのでよく顔は見えずそれは判らなかったのだが、なぜあんな事を言われたのかは後で分かった。

 なかなか呼ばれない。リスト通りなら次の次だが、もう3人呼ばれている。会計待ちだと思っていた人も、実は診察待ちの患者だったのだ。一方で、「お会計はまだかしら?」と訊きに行く人もいたが、その人は既に会計済みだった。見ると、ほとんどが結構なお年寄りだった。

 お年寄りは、細かいルールを飛ばすことが多い(時には細かくないこともある)。それについては随分前に本欄に書いたこともあった。はなから無視しているらしい場合もあるが、面倒であったり案内が悪くやむを得ない場合も勿論ある。

 昔、「高齢者の不便さの体感」というのをやったことがあった。視界が悪くなるゴーグルや、動きづらくなるギプス類を身に着けて、階段や凹凸の多い道、狭い通路などを歩き回るのだ。その時の感覚自体は忘れてしまったが、身近のお年寄りを見ていれば察することは出来る。年々老いていく母に接していれば分かる。

 だからと言って、見通しの悪い車道を周りも見ずに渡ったりするのは勿論止めていただきたいのだが、病院の案内が多少まどろっこしい程度でとやかく言っていてはいけないのだろう。いや、とやかくは言ってないか。

'12.11.19  随筆 

寝躓く
 午前1時に、ふと目が覚めてしまう。切り取られた様な日曜深夜にはあまりポジティブな物の考え方が出来ない気がする。こういう時はさっさと再び寝てしまうのが得策なのだが、上手く眠れない。当然一杯飲る訳だが、眠くなるほど呑むと明日に響く。

 娘達はとうに寝たらしい。階下では母と妹が何やら楽しそうに話していて、妻は洗面所にいる様だが、どちらにも声は掛けずキッチンへ。足音で私が起き出したのは分かるだろうが、こちらも特に呼ばれたりもしない。

 冷凍庫からズブロッカとも思ったが、やはり今の気分ではない。もうちょっと大人しい方が良い。かといってテーブルに出ている日本酒や赤ワインではどうもなという気がする。結局居間を一周して自分の書斎に戻り、枕元のウイスキーを手にする。

 自分で自分の酒を注ぐのだから、好きな様にすればいいのだが、どうしてだかちびちびとしか注げない。馴染みの店で呑むときに注いで貰う「にまり」とするほどの量は不思議と自分では注げない。せこい呑み方だろうか、思い切りが悪いかな、等と考えてしまう。まずネガな考えになる。酒場の様に1杯いくらじゃないのだから適当に呑んで良いのだが、細かく呑んでいった方が切り良く呑めるのでそうしているのだと思い当たるまで時間が掛かる。

 眠れないこんな時間には、読みかけの本でも読めば良いのだろうが、そう格好良くも過ごせない。大体、読んで眠くなる様な本は読まないし、それから、読んで楽しい気分になる様な本も読まないんだ。

 枕元と言っても、ドラマに出て来る様な感じではない。ベッドサイドのテーブルにショットグラス、みたいな。そもそもベッドじゃなくて布団だし。周りにあるのはがらくたと酒。あまり素敵なお父さんでも、良い夫でもない、そんな感じである。“お人柄”だよなと独りごち、眠りに落ちる。

 こういう時は、大抵あまり良い夢を見ない。

読書 村上春樹「カンガルー日和」講談社文庫(再読)

これも何度目かの再読。18本の短編は、しっくり来るものもあれば、ちょっと厭だなと感じるものもある。「長編のためのスケッチ風」というのには妙な既視感が邪魔である。あと実は私は佐々木マキの挿絵があまり好きではないのだった。でも総じて、80年代初頭の村上春樹だよねという感じで、しっくり来たり来なかったりする。ところでこの文庫には手製の栞が挟んであった。ロマンチックな貰い物ではなく、自分で作った物である。35mmモノクロフィルムの切れ端。大学生の時はどうした縁だか、初めは写真部にいたのだった。そんな事も思い出してみたり。


'12.10.21  随筆 

ご近所
 その頃のBさん宅の駐車場には、確かにしばらくクルマが停まっていなかった気がする。ご近所の家のクルマの変化は気付いても、なくなっている事には意外に気付かない。

 「主人はクルマに乗らなくなったから。最近気が短くなってねぇ、危ないから運転は辞めて貰ったの」

 というのがBさんの説明だった。私くらいの歳の男はご近所のお年寄りとそうは立ち話をしないものだと思うが、その頃は小さくころんとして愛嬌の良かった長女が挨拶をしてすぐ立ち話になった。

 Bさんには息子が一人いて、私の3つ以上年上だ。彼は病気で、心とちょっと身体も調子が悪かった。いつからの病気かはよく知らないが、成人した辺りにはそうなっていた。いつも家にいて、たまに夕方外を歩いていた。色の抜けたスウェットみたいなのを着て、焦点の定まらない目で、たまに何かに向かって文句を言っている様だった。

 子供の頃は下の名前でRちゃんと呼んでいたが、その後その名前は三人称でしか使われなかった。彼に限らず私はご近所の同世代の人とあまり親しくない。幼稚園から小学4年生まで生家を離れていたから、小さい頃に遊んだ皆年上だった近所の人達とは、同じ学校にも通う事なく縦の繋がりがすっかり切れてしまっていた。

 あれから5年くらい経った様な気がする。たまに上の娘と近所を歩いていてBさんに会うことがある。その度にBさんは娘を「大きくなって」と言うが、定型句なのか“本当にそう思って”なのか。半々だという気がする。

 遅い時間に一人で駅の改札前で誰かを待つ様に立っているBさんを見掛ける事もあるが、嫁いだ娘さんが一時的にか戻ってきており、呼びに来て家に帰る。Rちゃんの姿はこの数年見ていないが、どうしているのかは知らない。ご主人はよく見掛ける。

 駐車場は空いたままになっているが手入れはされており、雑草が生い茂ったりということはない。そこだけは昔のままに見える。


'12.10.16  随筆 

朝のサンドウィッチセット
 チェーン店のカフェに入る。朝を摂りそびれていたし、店頭にモーニングセットのPOPが出ていたので珍しくサンドウィッチでも食べようかと思った。

 セットは、好みのサンド類にコーヒーが150円で付くというのを大々的に謳っていたが、いざ頼んでみると大して割安感はない。サンドとコーヒーで440円。そんなものだろ。

 店も、週中の朝シフトに精鋭は配しないのか、何か見ただけでいかにもバイトですという顔をした店員がつっ立っている。まあ余計なお世話だし、言い掛かりみたいなものである。だがしかし、注文を始めると被せるように「店内でお召し上がりですか」と言ってきて、残念な気持ちは確証に変わる。訊ねる順番に問題はないし、まあまず確認しておくべき事ではあろう。だが、客の注文を遮ってまで訊かねばならないことなのだろうか。

 朝は多分7時台から開いている店だと思う。バイト嬢がそう近くに住んでいるということもないだろうから、早くに起きたのだろう。だから正直なところ、朝の喫茶店員が多少眠そうな顔をしていても仕方のないことだと私は思うのだが、不機嫌そうにしていて良い訳ではない。しかも不細工だ。余計なお世話だし、言い掛かりである。

 こうなるとサンドウィッチにも俄然文句を付けたくなる。2種類のサンドがパッケージされているが、「ぷりぷりエビとなんとかかんとかと玉子のサンドウィッチ」と商品名が長く読むのが面倒だし、オノマトペ付きの商品名は本当に鬱陶しい。席で開封すると、玉子サンドとエビ入り玉子サンド。玉子が被っているではないか。玉子サンドは予想に反してボリュームがあり程良い塩加減だったが、エビの方は辻褄を合わせるように貧弱で味も薄い。

 一通り平らげて店内を見渡す。客はまだ疎らで什器を拭き上げる店員もまだ朗らかな笑顔である。なんか入って来た時と印象が違うなと思ったら、なんのことはない、私の腹が減っていただけの様だった。


読書 三浦しをん「まほろ駅前番外地」文春文庫

文庫化遅いよー(言い掛かり)。ドラマ化ですか。映画もまだ観てないのに、多田はまだしも行天はどうしても松田龍平の顔が浮かんでしまう。


'12.10.4  随筆 

風邪薬

 事務所に着いて薬袋の中身をデスクに広げ、朝の分の風邪薬を飲む。今日を入れて2日分。この2日間で完治するだろうか。まだ明け方は咳き込みが激しい。金曜にもう一度耳鼻科へ行って、念のため週末越えの分までを処方して貰うかと考える。こういうのも医療費増大に荷担することになってしまうのだろうか。でも週末また具合悪くなってそのまま過ごすのは厭だしな。先週末は散々だった。

 机上に並んだ薬のシートを見ると、日頃気にしない処方薬の名前が目に止まる。「ムコダイン」「アクデューム」「トランサミン」、どれも往年のヒーロー物の名前の様だ。「メジコン」はちょっとギャグロボットぽい。

 先週は、とにかく咳を鎮めたくてまず薬店へ行ったのだが、売薬の価格の高さに改めて閉口した。しかも薬効は処方薬に較べれば今ひとつ。そもそも選んでいるのが自分なので信用できない。と言っても薬店店頭の「これがお薦め」POPも何か信じ切れない。店頭で成分を見比べたところで勿論判断できない。

 そもそもが、薬の成分について自分の判断できることなんか殆どない。薬の名前を「ヒーロー物の名前みたいだな」とか言ってるくらいだからな。そこは医師の判断にお任せする。ただ、薬局で「ジェネリックでも宜しいですか?」と訊かれると大抵お断りする。前と較べられなくなるからだ。

 大体、ジェネリック医薬品というのは、パソコンとかで言う逆コンパイルというか、模型で言う型どり複製品なので、イマイチ信用出来ない。しかも主要生産国がインドと中国というのも自分的には極端で、インド歓迎・中国拒否となる。食品が信用できないのだから、ましてや薬品ではね。

 あと、総じて名前が良くない。ヒーローぽくないんだ。お任せする気にならない。救って貰える気にならないんだ。

この既視感(デジャヴ)は…はッ、これ昨日の朝のツイートじゃないか! …わざとらしい。


読書 伊藤たかみ「海峡の南」文春文庫

“境”を越えた者が再びその“境”を意識する時に見る風景。あるいは“共犯者”と共に越える“境”の向こう。“境”と言う程の緊張感というのではないか。いや、「国境の南」と読み違えた訳ではなくてね。


'12.9.20  随筆 

アイスコーヒー作戦
 「住宅ローンを抱えてる人は、缶コーヒーなんか飲まないよ」と、妻に何度か言われた。彼女の勤務先の男達は皆そうなのだそうだ。妻は経理総務だから、各種の届出などから誰が住宅ローン持ちなのか承知の上で給湯室に出入りする男を見ているのかも知れないし、あるいはいちいち「俺、住宅ローン抱えてるから、缶コーヒーなんて飲めないわ」とか言いながら会社のお茶を飲んでる奴がいるのかも知れない。やれやれ。

 尤も私だってCMやドラマの様に缶コーヒーばかり飲んでいるわけではない。以前にクルマの運転をする度に飲んでいたから、そういうイメージがあるのだろうか。

 夏場は特に水分補給を心掛けるが、だからといって都度麦茶やミネラルウォーターなぞ買っていられない。ローン持ちでなくたってきりがなくて勿体ないだろう。なので空きペットボトルに水道水を入れて冷蔵庫に突っ込んでいる。千代田区の古ビルの水道水だって、冷やして飲めばそんなに不味い物でもない。

 ところが水ばかりだと段々飽きてくる。そういえば昨年は広口のペットボトルにパックを押し込んで麦茶を作り続けていたが、今年はあれがないな。そこで思い付きで、夏の間誰も手を付けないインスタントコーヒーで、アイスコーヒーを作ることにした。500mlペットボトルではどんな分量になるかについては、およそマグカップ2杯で良いかということで作ってしまったら、まあそれで特に問題はなかった。コンビニ弁当か何かに付いてきた大匙程度のスプーンにコーヒーとクリープそれぞれ山盛り2杯とスティックシュガー5本。アバウトである。

 流しでそれを作っているとR君が「アイスコーヒー作戦ですか」と声を掛けて行った。聞き様によってはからかわれている様にもとれるが、別に意味なんかないのだろう。

 ちなみに材料はどれも会社の福利厚生費から出ているので(単に私がアスクルで買うからだけど)ローン持ちには都合の良い飲み物である。

はいはい、冷蔵庫占領しないでくださいねー。


ティナンのコーヒー! 意外に不味そう(W

読書 村上春樹「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」文春文庫

インタビュー集。そうだ、私は村上春樹の文体が好きなのであって、創作プロセスに興味があるわけではないのだった。そもそも他の人が書いたその手の本は1冊たりとも読んだことがないし、インタビュー集なのだから当然村上春樹が書いた物でも何でもないのだった。とりあえず続きはまた後で読もう(1/5程で頓挫)。


'12.9.4  随筆 

日記調の朝
 朝、出掛けに居間の真ん中に口を結わえたゴミ袋があったので、「他には?」と妻に声を掛けてみた。今日は遅い出勤らしく部屋着のままテーブルでノートパソコンに向かっていた妻は、顔も上げずに「他にもあるからいい」と言った。一瞬躊躇したが、私はごみ袋を手にしたまま玄関へ向かう。「自分の部屋の分もあるから一緒に持って行くよ」位言えばいいのだろうが、それも何か煩わしく思え「行ってきます」とだけ言って家を出る。

 ごみ捨て場のネットを摘み上げると、脇を黒い影が抜けていく。トカゲと思ったが、壁面を斜めに登って行ったのでヤモリだったのかもしれない。指の先がどうなっているか見る暇はなかった。しかしそのコミカルな動作に、ある種心を癒されながらごみ捨てを完了。表通りへ向かう。

 強いと感じる陽射しも一時ほどではなく、わざわざサングラスを持って出る強さではなくなっていた。「わざわざ」というのは、私は眼鏡を掛けているから、サングラスを掛ける際は当然別にその眼鏡とケースを持ち歩かなければならないからだ。しかも今日は得意先に直行だから、いつもなら職場に置き放しにしている仕事用の玉に色の入っていない眼鏡も持たねばならない。眼鏡を掛けた上に、掛け替えの眼鏡を2つ持ち歩くだなんていくら何でも馬鹿げている。

 週末の秋祭りは、あの雨で散々だったのだろう。いつもならごみや油で汚れている商店街の歩道が、比較的綺麗だった。干上がり掛けの水溜まりにはプラスチックらしき何かの蓋が落ちていて、それが祭りの後を思わせた。

 夏休みは終わったというのに、いつもより1時間遅いと街も駅も随分と静かだ。大学はまだ始まっていないのだろう。空いた電車はすぐに座れた。隣の年寄りが熱心に何かを読んでいる。A4判モノクロ平綴じで、何かのテキストの様だ。ヘッダーのタイトルを見ると「日記の書き方」とある。

 それに触発されての今回の日記調。なんて、嘘つけ。


'12.9.1  随筆 

ビールの類
 夏場は暑いので、何かというとついビールの類を呑んでしまう。まあ冬だろうが何にせよ呑むのではあるが。クルマや自転車の運転をしない休日は、午前中から呑んでいたりする。

 ビールの「類」とわざわざ書いているのは、勿論発泡酒が大半だからである。昔は気取ってハートランドの中瓶をケースで買って冷やしていたりしたのだが、手間も財布もきりがないので今に至る。

 それにしても発泡酒というのは出生のせいかあまり良い響きではない。「安いです」くらいならまだしも、「少々不味くても背に腹は代えられません」とか、「節税対策ですよ」という考えだと取られるかと想像しただけでうんざりしてしまう…という方が貧乏くさいか。もとより、発泡酒の中にはそれなりに悪くないやつだってあるし、そもそも、2杯目以降は大差ないだろうとも思う。

 そこへいくと、最近のホッピーはイメージが向上して来ているのであまり貧乏くさく感じられない気がする。ただ、焼酎自体あまり呑まないので、割るためだけに焼酎を置いておくのもなと思う。何ならウオツカを割るのでも良いのか。しかし呑む度いちいち割るのも面倒だなと思う辺りが宜しくない。

 ところでホッピーはなぜ瓶のみなのだろう。業務用には勿論瓶が一番なのだろうが、家庭用の方は缶ならもっと普及するのではないだろうか。などと考えていたら、いつの間にかノンアルコールビールが缶で普及してきた。尤もこれは割り物用ではないのだが。

 飲酒人口が減っているので、飲まない層に向けての商品だという話もあるが、それはどうかなと思う。私には、呑み助がどうしても呑めない時の代替品としか思えないが、よく考えたら自分は殆どこの類の物を呑んでいない。

 なにせ、どうしても呑めない事は滅多にないのだ。どうしても呑みたいだけなのだという気もするが。

読書 大竹聡「ぜんぜん酔ってません 酒呑みおじさんは今日も行く」双葉文庫

それで読んでいたのがこれ。筆者は「酒とつまみ」誌創刊編集長。酒を呑むと、人により喜怒哀楽色んな感情が出るものだが、酒呑みの文章で怒っていたり哀しんでいたりする文章はあまり見掛けない。結局楽しくなければ呑まないという事だろうか。