「海でも見に行かないか?」

'10.7.9

「海でも見に行かないか?」と言うと、聡子はわざとらしく眉間にしわを寄せる。
「海? 今? この時期?」
「真冬の海というのも、それなり趣のあるものだよ」
「今の私達には合っている、という意味かしら」
「温もりを求め合っているという意味か?」
 ふん、と鼻で笑う。

 湾岸までクルマを走らせる。幌は何度も専門の所で補修をしたけれど、それでもやはり車内には必ず冷たい風が刺すように流れる部分がある。それを探しているのか、聡子はゆっくりと宙を探るような仕草をする。何か、懐かしそうですらある。

「まだこれ乗ってたんだね」
「買い換えるほど金回りは良くない」
「維持する方が高く付くんじゃない?」
「前の君みたいなものか」
「そんなに使って貰ってないわ」

「そうだったね」とは口には出さなかった。でも確かにそうだった。使おうにも5年前の僕は全く貧乏だったから。そのくせ旧いフィアットのオープンなんかに乗っていた。

「ドアノブの形が気に入ったんだ」
「何?」
「このクルマを買った訳」
「ああー、そうそう、私には使って貰えなかったわ」
「不満だった?」
「このクルマがね」

 左ハンドルのマニュアル車だから、二人の間にある僕の腕はせわしなく動き回る。手も繋げないというのが彼女の不満の一つだと言われたことがあった。運転中に手なんか繋ぐものじゃないだろう。意外に少女っぽいんだ。

「森さんの…車は、左ハンドルのマニュアル車じゃなかった訳だ」
「ええ。でもどっちにしても同じ事だったわ」
「何が?」
「右ハンドルのベンツだったの」

「ああなるほどね」とニヤニヤしながら答える。元が左ハンドルのクルマはウインカーのレバーが左に来る。つまりウインカー操作のために、結局手は握れないという訳だ。

「まさか彼ともそれで別れたのか?」
「馬鹿じゃないの。どっちも違うわよ」
「どっちも、か」と思いながら、なんか愉快な気持ちになった。

 若い頃は、何かというとクルマで海に行った。その様にして僕は何人かの女の子を海辺に誘い、上手く行けば、キスをしたりハードペッティング(死語だな)をしたり、場合によってはカーセックスをしたりした。もっともその場合の「海辺」は、大概は倉庫街のデッキだったり、運河の護岸だったり、本来の海辺とは趣も何も全く異なるところだった。

「“本来の海辺”って、あなたにとっては何なの? 何かロマンチックな思い出話でも?」

「全然ロマンチックなんかじゃないよ」とだけ返す。子供の頃の僕は、夕方の大半の時間を近くの海辺で過ごした。あまり家には帰りたくなかった。砂浜に穴を掘って足を埋めると、とても暖かくて、いつまでもそうしていたかった。目を瞑って寝そべっていると、暫くすれば暗くなっている。そのうち諦めて砂から抜け出して家に帰った。それが僕にとっての「海辺」だ。癒されたなどというと言葉が安っぽくなる。黙って傍にいてくれる感じとでも言うか。場所に対してそういう感覚を覚えるというのも変かもしれない。

「でも、こんな場所も、別にロマンチックでも何でもないわ」
「そうだね」

 脳天気に電飾の掛かった倉庫が対岸に見える。よく見れば倉庫を改造したカフェか何かの様だった。しかも流行っていない。今時こういうのは流行らないんじゃないかな。
 流行らない対岸のカフェを眺めながら、それでも僕らは何だか落ち着いた気持ちでいた。緊張もしないが退屈もしない。何かで埋めなきゃという焦りもないが、早く帰りたいという白けた気持ちもない。海を眺めるというのはそういう効果があるのだと言ったのは、どこかの精神科医だったか、昔付き合った女の子だったか。いや、聡子だったんじゃなかったか。

「こうして二人で海を見ているというのも久しぶりだね」
「そうね」
「向き合って座るより、二人で同じ方向を見ているというのが良いと、確か君が言っていたよね」
「…短かったけどね」

「4年間を短いと言うかどうかね」と言ってから、自分の他のケースを思い出してみるが、残念ながら記憶はまるで数値化されておらず、漠然としか思い出せない。想い出をいちいち数値で覚えている奴は凄いなと思う。思うだけだけど。

「ああ、でも」
「何?」
「ここの部分は運河なのじゃないかしら。つまり海ではないから、どっちにしても海辺とは言わないわね」
「そうだね。でも、中国の奥の方では湖でも海と称する地域があるそうだよ」
「あなたってねぇ…」

「海かどうかなんて、どうでもいいんだよ」と思った。勿論口には出さない。何にせよ今日は、いや彼女とは、キスもしないだろうな。当たり前か。

 僕がくすりと笑うと、聡子はわざとらしく眉間にしわを寄せる。意外に僕はこの表情が好きなのだ。


この作品は、mixiの「お題に合わせて短編小説を書こう」コミュのお題「海」に参加。字数制限は2000字に準拠。