告白

'10.8.4

「志乃さん」

 間違いなく彼女は志乃さんだったが、声を掛けるのに一瞬躊躇ったのには二つ理由がある。

 一つには、彼女が“何”志乃だったかを思い出せなかったから。互いにいい歳である上に、さして親しい間柄でもないかもしれない異性を下の名前で呼ぶのが好ましいかどうか。彼女がどう感じるか。判断が付かなかったのである。

 そしてもう一つには、そう、そもそも親しかったかどうかを思い出せなかったから。声を掛けてから、親しくはないどころか、あまり関わり合いになりたくない種類の知人であることを思い出すということが僕にはままある。

 それでも声を掛けたのはなぜだかはよく分からない。「つい」というのが正しい。

「あの…」

 一瞬、上品ながら怪訝な表情が浮かぶ。しかし世の中の怪訝な表情をする人が、皆彼女の様に上品に怪訝な表情が出来るのだったら、とても過ごしやすい社会になるだろうに。

「富樫です」

「あッ、トガシくーん。トガシくんだ」

 無邪気な声を上げて微笑む彼女は、僕の記憶にある彼女の様に思えた。志乃さんは同い年であるから今年四十になるのだが、それよりは若く見える。下の名前しか覚えていない相手の年齢を、なぜそうも正確に覚えているかというと、彼女とは同級生だったのだ。高校卒業以来会っていないから…何年ぶりになるか。いや、待てよ。高校ではなく中学の同級生だったのではないか?

 丁度Mビルの入り口だったので、1階のカフェに誘った。

「忙しかったかな。ごめんね」

「ううん、大丈夫。トガシくんこそ、お仕事中でしょ? 喫茶店なんて入っていて良いの?」

 僕は内ポケットからさっきしまったばかりのMビルの入館証を出す。

「ここは取引先なんだ」

「あら」

 よく考えたら、それと仕事中でも大丈夫かどうかということは、むしろ逆のことのようにも思えたが、まあ良いか。

 互いの近況を話すのにカードを隠したり順番を熟慮したりする必要はない。特に口説く気がある訳ではないし、僕の関心は彼女自身ではなく、自分のあやふやな記憶に対する興味の方にあるからだ。

 彼女は今、練馬区の武蔵野寄りに住んでいる。既婚。相手は二つ年上で、前の職場の先輩だそうだ。子供はいないらしい。彼女の仕事は人材派遣会社の事務職だという。人材派遣という仕事は、今時はきついことも多いんじゃないかと訊くと表情が急に曇ったので、適当に違う話題を振り直す。まあここで仕事の愚痴を零されても困る訳で、反応としてはありがたい。それに彼女の今の職業について特に知りたいという訳でもない。珍しい犬を飼っているということだが、残念ながら僕は犬の種類に詳しくない。しかし彼女が楽しげに話すものだから、ついつい突っ込んでいろいろ聞いてしまう。と言ってもほとんど興味は湧かず、受け取っては横に積んでいく荷物の様に話を訊いていく。Aの物はAの枠内に、Bの物はBの枠内に。それにしてもよく話す。楽しそうに話してくれるからまあ良いと言えば良いが。いや、それ以前に僕は彼女と話して何を得ようとしていたのか。話す内に分からなくなってくる。

「なんか私ばかり話してるね。トガシ君は今何をやっているの?」

「あ、ああ。このビルの情報誌を作ってる。情報誌と言っても、まあフロアガイドに毛の生えた程度の物だけどね」

「何か書いたりするの好きだったよね。新聞部で活躍してたものね」

 そうだっただろうか。僕が新聞部に入っていたのは、そうか、中学生の時だ。しかし僕はただ所属していただけで、同級生の印象に残る様なことは何もしなかったと思うのだが。

 自分について話していた彼女が、今度は僕の事を話し始める。新聞部の取材で近所の文房具屋にしたインタビューのこと。文化祭の展示を製作するために遅くまで一人で残っていたこと。僕自身もよく覚えていない様な事が多かった。何より、それらの記憶はいちいち前向きな物ばかりで違和感すら覚えるのだった。僕はそんなに楽しそうに一所懸命に学生生活を送っていたか? そしてもう一つの違和感…。

「トガシ君、知ってる? 私トガシ君のこと結構好きだったのよ」悪戯ぽく言う。

「ん。それよく聞く台詞だね。そして僕は『なんであの時に言ってくれなかったんだよ』と言うんだ」

 彼女はふと妙な間を開けて言う。

「気付きもしない人に告白しても、想いなんか通じないものでしょ」

 確かにそうだ。しかし。

「そこまで分かっている中学生はいない」

「そうね」愉快そうに笑う。

 よくよく考えてみると、中学生時分の僕は女の子に大して興味を抱いていなかった。他の少年達と同様さすがに性欲はあったが、つまり恋愛に興味があった訳ではなかったという意味だ。だから彼女の話に出て来る妙に爽やかな少年像が、何やらとても居心地の悪い物に思えてならなかったのだろう。

 別れ際、小さく手を振る志乃さんの後ろ姿が、「あんな人に告白なんてしなくて良かったでしょう」と、中学生の志乃さんの肩に手を置き言っている様だった。


この作品は、mixiの「お題に合わせて短編小説を書こう」コミュのお題「少年時代」に参加。字数制限はコミュの仮規定2000字に準拠。