幸せの星空

'10.8.18

「あなたは本当の星空を見たことがないでしょう」と恵美子が言う。僕を見る目には哀れみの色さえ浮かんでいる。

 さて、こういう時はどうすれば良い? 「“本当の星空”というのはどんなにか素晴らしいだろうね」と彼女の瞳を見つめながら話を振り、彼女に好きなだけ旅行先で見た荘厳な星空や故郷の美しい星空にでもついて語って貰えば良いだろうか? それが最もスマートだろう。

 
しかし、今の僕はとてもそんな気持ちにはなれない。

 
翌日には例えば彼女は言うかも知れない。「水面に飛び上がるイルカの美しさを知らないなんて」。あるいは「陽に照らされ海底でキラキラと光る珊瑚の美しさを知らないなんて」。等々。僕はそんな物には全く興味を抱けないし、どうだって良いのだ。美しい物や素晴らしい物で世界は溢れている。だからこそ、そんなものにいちいち付き合わされたくない。そいつらが、僕と君を幸せな気持ちにするのか?

 
付き合い初めの内は、恵美子の何にでも素直に感動する様な所が可愛くもあったのだが、最近はその独善的で押しつけがましい感動の仕方が鼻についてきていた。そしてそういう気持ちはあの時に決定的になった。

 
先月、懸賞で当たった旅行で恵美子がオーストラリアへ行った。僕は都合が合わなかった。1週間近く行っていただろうか。その頃は概ね無条件に彼女のことが愛しかったので、離れれば逢いたくなったし、空港へ迎えに行く車中では1週間ぶりに逢えることに胸の高まりさえ覚えていた。お帰りと言って早く抱きしめたかった。

 
ところが空港に着いた恵美子は同じグループの連中と別れを惜しむように話し込んでしまってなかなか帰ろうとしない。2時間遅れた便を待ちくたびれていたとは言え、ここで腹を立てるのも大人げないとそれでも僕は我慢した。

「ごめんね。何か別れ難くなっちゃって。空港の駐車場に停めている人もいたから、その人に乗せて貰う様にすれば良かったね」

「まあ…事前には分からない事だからね。仕方がないね」誰に対して言っているのか、自分でもよく分からない。

 
そこからの帰路、恵美子は向こうで見た色々な情景の話を続ける。カメラの液晶を見せようとまでする。いつもの僕なら「運転しながら見られないって」と笑うところだったが、とてもそんな和やかな気分にはなれなかった。つまり、気のなさそうではない返事をちゃんと返し続ける気にもならなかったし、暫くぶりに逢った愛しい相手を抱きしめたいという気にもならなくなっていた。だからそれを口にする気もなかったのだが、恵美子に部屋の前で別れ際「送って貰うためだけに空港まで来て貰っちゃったみたいになってごめんね」と言われてつい言ってしまう。

「久しぶりに逢うのだから、もう少し二人きりでゆっくり過ごしたかったけれどね」
「えー。私、凄く素敵な体験をいろいろして帰ってきたんだよ。まずその話を聞いて欲しいと思うものじゃない。そういう事にちゃんと付き合ってくれずに“一緒に”だなんてちょっと身勝手だと思うよ」

 
何というか、とても厭な感じの表情をして言うのだった。そんな事だけを言っている訳ではないのに。そういうのってどういうのだよ。

「そうか。そうだよね。僕もちょっと運転で疲れちゃったかな。ごめんね」などと、思ってもいないしどうでも良いような言葉だけ残してその日は別れた。

 
それから結局ひと月、僕らは逢わなかった。彼女は元々自分からまめに連絡を寄越すタイプではないし、僕の方は細かく連絡を取る気に全くならなかった。暫くして共通の知り合いの用事で何となく会うことになり、夕方に多少見晴らしの良い半テラスのバーで待ち合わせた。連日夕立が続いていたが、空を見上げると暗くなり始めた空の端の方に星が輝き始めていた。

「今日は星が見えるね」とだけ僕は言ったのだった。

 
初め、恵美子が何を言っているのか分からなかったが、それがひと月前の続きと分かると、次第に胸の奥に何か厭な感じの泡沫が沸き上がり、僕は吐き捨てるように言った。

「そんなもん、どうだって良いんだよ」

 
恵美子がどんな表情をするかを見るのも不快で、すぐにその場を立ち去った。

 
そろそろ街は夜らしい夜に包まれようとしている時間で、歩道のタイルまでもが上気している様に見えた。どこかに滑り込んで一杯引っ掛けていくしかないなと考えながら歩いていると、女に行く手を軽く阻まれる。

 
体躯にぴたりとした黒のパンツスーツを身に纏うその女は、どこだかで評価の高い何とかというイラストレーターの絵を、正面のギャラリーで見ていかないかと言うのだ。彼女が手にするポストカードの絵を見て僕は「あ、これか」と思った。満天の星空と花火の様にキラキラと輝く光。手前では擬人化された四本指のネズミが気色悪い笑顔を満面に湛えている。

「そんなもん、どうだって良いんだよ」

 
どうせ女は恵美子と同じ表情をしているに違いない。不快で、振り返る気にもならなかった。


この作品は、mixiの「お題に合わせて短編小説を書こう」コミュのお題「星空」に参加。字数制限はコミュの仮規定2000字に準拠。