行儀良く

'06.4.23

 「D」に寄ると隣が磯谷だった。たまに言葉を交わす程度の相手だが、その日は最近顔を見ない他の客の話になった。バーではよくある噂話だが、相手が彼なので適当に切り上げようと思った時、大山美樹の名前が出た。

 彼女は「D」では“NY姉ちゃん”と呼ばれているらしかった。以前にも耳にしたことがあるが経緯はわからない。自分にとってはしっくりくる気もするが、他の客にとって彼女の何が「NY」なのだろう。
「大山さんはなんで“NY姉ちゃん”なんですかね」
「ああそれですね。美樹ちゃん、いつだったかナントカNYって大書きされたシャツ着ていて」
 それなら誰でも着ているじゃないかと思ったが。
「それでほら、彼女そういうの着ると字が歪むじゃないですか」
 そう言って「きしししし」と笑う。評判の悪い、癇に障る彼独特の笑い方だ。
「それで“NY姉ちゃん”」
 意味が分からない。というかどうでも良い話だな。訊くんじゃなかった。それでも訊きっ放しにするのも悪いので「そのシャツって」などと話を継ごうとすると、磯谷はいつの間にかそっぽを向いていた。やはり間合いのおかしな男だなと思ったが、理由はすぐに分かった。
 カウンターの端から石川が私へのデモンストレーションの様にドアの外に大きく礼をして「いらっしゃいませ大山様。どうぞ」と言い、私の隣に彼女を誘導した。

 躰にフィットした黒のパンツスーツ。仕事着は大抵そんな感じの服なのだと言っていた。ああ、それがダナ・キャランだったか? 随分昔のことなのでよく覚えていない。
 彼女の服の表面で表情を変える光沢に気を取られていたら、いつの間にか隣のスツールに彼女が腰を掛けて来てはっとする。
「あ、やあ」なんとも間抜けな挨拶になってしまった。
「久しぶり。どうしてましたか?」
「本当に久しぶり。今ちょうど君の話をしていたんだよ」
 磯谷は小声で「俺チェックね」とか言っている。
「私の? どんな? あ、ピコンソーダを」
 わざとらしくなく綺麗に上がる口角に見取れて返事がワンテンポ遅れる。
「人それぞれに合う街のイメージということを話していたんだ。例えば君ならNYだなって。何でかねと訊いていたというところさ」
 磯谷を良く言ってやる義理はないが、さっきの下らない話を口にする気にもならない。
「ふうん…。帰国子女だからとか」
「だっけ?」
「違うけど」
「なんだよ、それ」
 自分を大して知らない人間にどう思われても気にならないというところか。
「田代さんはどこかな…」
 その時私は、昔スキー場で使ったトランシーバーを頭に浮かべていた。自分が喋った後、ボタンから指を離して相手の返事を待つ、あれだ。「カチリ」と私はボタンから指を離して耳を澄ます。艶消しに仕上げられたABS樹脂のスピーカー表面に意識を集中する。そんな感じだ。
 返事は早く欲しいのだが、今この瞬間は彼女の頭の中で主に自分に関する情報が処理されているかと思うと、それが少しでも長い時間であって欲しいと考えてしまう。
「どこか寒い所」
 その言い方には、距離と、少しの好意が感じられた。
「抽象的だね」
「でも、どこか寒い所という気がする。田代さんも私はNYだと思う?」
「さあねぇ」

 ポジティブで、エネルギッシュで、スタイリッシュで、少しドライな印象のところがNYっぽい。言葉にすると陳腐だし、そもそも本人に向かって言うことではないだろう。

 それに、それとは別に私は彼女に昔言われたある言葉を思い出していた。

「私は、no refundですよ」

 その時彼女は珍しく酔っており、上気した顔でNYのミッドタウンで買い物をした時の話をしていた。向こうの店は店頭にリファンド・ポリシーというのを出していて、no refundとあれば返品不能なのだそうだ。
 尤もその後私はrefundどころか結局彼女を手に入れることすらできなかったが、それはno refundに怖じ気付いたせいなのだろうかとも考えた。後からなら、いろんなことがどうとでも考えられる。

「ところでNYと言えばキャナルポリスって知ってます?」
「いや」
「品川の駅ビルなんだけど、全体が“NY風”なの」
「あれか、“食のテーマパーク”みたいなやつか」
「そんなに極端でもチャチでもないですよ。向こうから持って来たような店とかあるし。田代さんの好きそうなバーもあるの。今度よかったら行きましょう」


 それから一月後、私はその駅ビルで一人で呑んでいる。たまたま品川での打ち合わせでその日の仕事が終了して、あの時の話を思い出したからだ。結局その後“今度”なんぞは訪れず、彼女からの連絡がある訳でもない。

 しかしどうしたものだろうか。いい歳の大人が、来るあてのないオンナを待つ様にしながらぐたぐだ呑んでいる。ちっともスタイリッシュではないのだ。しかし、この感覚の懐かしさは悪くない感じだ。

 この近くに居はしまいかと彼女に電話を掛けてみることにした。切実な気持ちと言うよりは悪戯に近い。しかし数コールで留守電になった。もっとも彼女は基本的に電話を取らないので落胆はしない。着信だけ残して切るのは何だか子供っぽい気がしていつも“きちんと”名乗ってからメッセージを残していた。
「田代です。いまどちらですか? 近くにいたらと思って電話しました。ではまた。」
 どうせ近くにはいない。ここに来る気になっても、…まあ、そんなには待つ気もないから今夜は逢えないか。

 2杯目のウオツカトニックを半分呑んだくらいで電話のLEDが青色に点滅する。
「はい」
「電話ありがとう」
 やれやれ。「ありがとう」だ。
「いま、どこに?」
「立川です」
「意外だな。立川に何が? それもこんな時間に」
「商談。お客さんがね、事務所この辺なの」
「商談中?」
「待たされてる」
「そうかぁ」
 こちらが今どこにいるか言いたくない感じになった。しかし話の流れ上、言わざるを得ないか。どうだろう。と思っているなり訊かれる。
「今どこ?」
「呑んでる」
「羨ましい」
「一緒に呑めたらと思ってさ」
「残念。また誘って」
「…そうする」
「電話ありがとう」
「お疲れさま」
 お疲れさま。とつくづく思う。

「ペレツォフカ」
 八つ当たりのようにバーテンに言う。
「はい」
 フリーザーから霜まみれになったペレツォフカのボトルが出てくる。単体で呑む人はあまりいないだろうが、ブラディメアリも出ていないのだろうか。そういえば、このポピュラーなロシア産のペレツォフカはもう手に入らないのだと半月程前に「D」の石川が言っていた。やはりペレツォフカは出ないのだろう。
 バーテンの手が止まるので顔を上げると、私の手元に視線をやる。
「こちらは…」
 ウオツカトニックが所在なげにカウンターに居る。
「もういいんだ。…ストレート。チェイサー、ビールで」
「はい」
 私の前のカウンターはリセットされ、クリスタル細工の氷の王女の様なペレツォフカと、お付きのハーフパイントドラフトビールが並ぶ。頼もしい感じじゃないか。綺麗で情熱的ながら辛めの性格の王女。そういうタイプとは付き合ったことはないな。まあいいか、この場での私は“お付き”なのだし。
 彼女だったら何だろうか。ふとそんなことを考え始める。口当たりは良いけどちょっとクセのあるフルーツリキュール? それじゃNYのイメージと整合性が取れないか。それに都市の次は酒か。「彼女のイメージは何?」。つまらない雑誌の穴埋めゲームみたいなことをして朝まで潰すか? あほらしい。
 そもそも今は王女ペレツォフカの“お付き”じゃないか。私は軽く頚を振るとショットグラスを手に取る。劇中なら「抜刀」と叫んでいるところだ。いやあるいは「あほらしい」かも知れない。

 “王女”を飲み干して暫くするとBGMが変わり、艶っぽいトランペットから始まるジャズになった。ペギー・リーの「ブラック・コーヒー」だ。夜更けに、来るあてのない男をコーヒーを飲みながら延々待ち続ける女の歌だ。こっちはコーヒーじゃないだけ本気の度合いが低いのか、などと自虐的に考える。ハスキーだけど愛嬌のある歌声が、彼女のイメージに被る。しかし嫌味な選曲だ。知っている店なら文句を言ってやるところだ。
 次の一杯。ブラック・コーヒーはさすがに出ないだろうが、コーヒー豆を漬け込んだウオツカ…なんていうのも置いている訳はないか、などとぼんやり考えていた。

 声を掛けられて顔を上げるとバーテンがラストオーダーを告げる。時計を見ると23:30。いつもの「D」だったらそろそろ“分岐点”を超えるかどうかと考える時間か。「もう終わりなのか」と思ったが、考えてみれば終電が出た後まで駅ビルが営業していたらおかしいか。

 カウンターでチェックを済ませて店を出る。クロムメッキの柱を覗き込むと、眉間に皺を寄せた酔っ払いが一人。やれやれ。私はビルを出て、ジャケットの衿を直し、背筋を伸ばして歩き出す。

 駅ビルなのだ。行儀良く帰る様に出来ている。