ナッツ

'05.3.14

 いつものバーに、いつもの様に寄ると、カウンターでナッツが知らない男と呑んでいた。僕が店に入ると気が付いて、目で挨拶を交わす。「やあ、その野暮ったい男はどこのどいつなんだよ」と、目配せだけでは言い切れない。まあいいさ。少し離れたテーブルに行き、スツールに腰掛けた。

 ナッツというのは僕が勝手に彼女に付けた名前だ。下の名前だけは聞いたことがあった気がするが忘れた。誰もが違う愛称で彼女を呼ぶが、その内のどれだけが彼女の本名を知っているのかは怪しいものだ。勿論、ここでは本名を知っている意味なんてあまりない。

 それにしても今夜は客が多くて落ち着かない。僕はこういう時、ふてくされた表情で呑んでいるのだと彼女に言われたことがある。今も多分そんな顔なのだろう。

 2杯目のウオツカソニックに口を付けると、彼女がこちらに来た。

「どう?」
「何とかやってる」

 君がいなければ帰ってるだろうけどね。

 彼女はあやふやな笑みを口元に浮かべて、向かいのスツールに腰を滑らせてきた。身を屈めた時に、すかすかの胸元が露わになる。乳首の先まで見えてしまうのではないかという位に胸元が開く。僕がじっと見ていると、彼女は胸元をそのままに、僕の顔を覗き込んできた。目があって、何か言おうかと思ったが、結局わざとらしく口の端を歪めただけでごまかした。彼女も同じように口の端を歪めて見せて、胸元を正した。中から、一瞬ラストノーツが香る。

「色が白いね、カシューナッツみたいだ」

 大分呑んでいたからだったのだろう、気障な言い回しだなと思ったがなぜかそれが彼女に大受けして、それ以来ナッツと呼んでいたんだ。白くて甘そうだから、とまでは口に出していない。

 香りも甘いんだなと思った。

 彼女の服の好みは夜に見る分にはセクシーでしっくりくる。昼間だとちょっと目立つだろう。向き合っていると気恥ずかしくてあまり躰を見られない。そっぽを向いているか、気付くと目を見つめていたりする。

 ふと彼女の瞳の中が動いて焦点が合うと一瞬オンラインになる。大量の心地良い情報が流れ込んでくるのだが、僕は解析が追いつかない。オーバーフローする前に視線を外す。僕はそういう情報に関して、極端に容量が足りない。

 化粧室に立つ彼女の後ろ姿を見送りながら頭から爪先まで走査する。深いスリットの縁は端の部分だけが上品なレースで飾られていて綺麗だ。そこだけを眺めていた。女の子同士だったら「かわいい」と言うのだろう。かわいい。良い感じだ。

 彼女のグラスは空になっていたので、席に戻って来ると「なにか飲めば? 一杯奢るよ」と言った。

「あら、なんで?」
「だってホワイトディだろ?」
「今日は"お返し"の日なんじゃない?」
「逢っていたら、くれていただろう?」
「自信過剰なんじゃない?」

 意地悪そうで可愛い笑い方だ。

 会話の方は特に艶っぽい話をするわけではない。友達の店で春物を買ったとか、ブーツが合うと思うので欲しいとか、そんな他愛もない話だ。欲しいといってもねだられている訳ではないが、でもいつになく悪戯っぽい気分になり履かしてあげるより脱がす方が好きなんだがなぁなんて軽口を叩く。

「ブーツは自分で脱ぐものでしょ。脱がして貰うのって、絵面として変じゃない?」
「確かにね。傍目には変なシュミがあるみたいに見えるかもね」
「でもブーツはともかく、"脱がしてあげる方"なんだ」

 漫画だったら吹き出しの右肩に「フフン」と付いているのだろう。僕は返事の代わりに端の方が曖昧な笑みを浮かべた。タイミング次第では自分はこの娘と寝られるなと思ったけれど、きっとずっと寝ないままだとも思う。

 ふいに時計を見た彼女は「いけない」とつぶやいたかと思うと鞄を手に「帰らなきゃ」と席を立った。僕はこのタイミングで帰るのかよと思ったが口には出さず、「そう。じゃあ」とだけ言った。そう言わないと何かとてもスマートでなくなる気がしたからだ。スマートでなければ僕らの関係は存在しえない。

 たまに彼女と寝たいととても強く思うこともあるし、別にどうでも良いやと思うこともある。僕はつまらないことをぐだぐだ考えていて、つまりは僕単体ではひどくスマートではない。でも僕のスマートさなんて実は誰も気にしちゃいないのだと思う。ひょっとしたら彼女ですら、だ。

 自己嫌悪に陥りつつもう1杯頼む。そういえば何杯目なんだか。僕はミックスナッツの小皿を中指でつつき、カシューナッツを探した。