つくりものの爪

'05.2.21

 スツールに掛けると彼女は手袋をゆっくりと脱いで、点検するように指を拡げた。細すぎないし、柔らかそうで綺麗な指をしているなと思いながら僕は見つめた。濡れている様なグロスの光が長い爪を覆っていて、左手の小指と右手の薬指には花の形の飾りが付いている。自前の爪ではないのだろう。こういうの、何と言うのだったか。

 僕が、爪を誉めるためにその名称を思い出そうと一瞬黙ると、彼女は「突然に逢えることになったから、今日、時間調整して爪新しくしたのよ」と言った。悪戯っぽく自慢げに言うものだから、僕もつい、昨夜新調したシャツを着ていることを明かしてしまった。

「このシャツも、今日逢うから買ったんだ」

 何か子供じみているなと心の中で苦笑した。別に隠す必要はないのだけれど、あまり格好の良いことではない様に思えて言わないでおくつもりだったのだが。シャツは、昨夜の帰路に閉店間際の店へ駆け込んで買ったものだった。このスーツに合う色のシャツは少し色がくすんでしまっていたのだ。慌てて買った割には結構気に入っている。ただ、まだ新しいから襟ぐりが擦れてちょっと痛い。しかし浮かれ気味の今の自分には丁度良いくらいかもしれないかと思った。

 彼女は目を丸くしてとても意外だという表情を見せたが、すぐにその目を細めてとてもくすぐったい笑顔を浮かべ、僕の腕を抱き寄せた。腕が、柔らかい彼女の胸に沈み込むと、胸元から甘い香りが押し出されて来た。

 スカルプ。そうだ、スカルプチュアだ。その瞬間に思い出した。

「そのスカルプチュア、花はなぜ左右の手で同じ指の爪じゃないの?」

 誉めるタイミングを逸してしまったこともあり、ふいに口をついて出た僕の質問は間が抜けていた気がする。彼女は小首を傾げてくすりと微笑み、「さあ、なぜかしら。いつもお任せだから。若いけど腕は良い人なのよ」と答えた。確かに綺麗な爪だし、飾りの花も悪くない。しかしどの辺に腕の良さが表れているのかは僕には分からない。だからなるほどとも何とも答えられず、「ふうん」と適当な相槌を打ちながら飾りの花を中指で軽く撫でた。

 爪を撫でられている方の手をそのままに彼女は体をこちらに向け直した。

「足もペアなの」

 真っ直ぐこちらを見ている彼女の目を見てから、爪先に目をやった。薄茶色のパンプスは手入れが行き届いており、その中の、綺麗に飾られた爪の存在を感じさせない。そして踝(くるぶし)から膝まで戻す視線を彼女の脚に滑らせると、なぜだか溜息が漏れそうになった。そして我に返ると再び彼女の目を見つめ返した。

「爪先の方も、見てみたいね」

「だって…。見えるでしょう? でも見るの忘れちゃうのよ、きっと」

「いや、憶えておくよ」

「でも、憶えておかないでね」

 果たして僕は途中で思い出した。背中に掛かった彼女の指が不自然に腹に力が掛かっていて、そうか爪が長いからかと考えたからだ。途中だったのが良かったのかどうか分からないが、終わった後に憶えているかが心許なかったので、"爪先を見られる様"に、した。

 後で彼女が悪戯っぽく訊いてきた。

「わざわざ爪、見たでしょう?」

 僕はロビーでの彼女の言葉を思い出し、ひょっとしてそのことだったかと思い、謝った。

「ううん。それに…あれはあれで良かったのよ?」

 そうなのか。それならそれで良いけれど。そう考えながら、やはりあれは違う種類のことを言っていたのだと確信した。そう思うと急に、彼女とこうして逢うことが、こうして逢いたいと思うことが、とても申し訳なく思えてきた。しかし一方では、それでも逢い続けてくれる彼女が愛おしく思えてならない。そしてそう思うほどに、自分の気持ちが不器用にぎこちなくなっていくのを感じた。

 僕は「今月はもう忙しくなるんだっけ」と訊いてみた。「そう」とだけ言うと彼女の言葉は後が続かない。僕も「そうか」とだけ言って黙り込んでしまった。

 帰路、旧街道へ市街地を抜けるタクシーの中で、ふと、そういえば足のスカルプチュアはどんな図柄だっただろうかと思い出そうとしてみた。これが不思議なほどに思い出せない。まるで何かの暗示をかけられているみたいだった。僕が"わざわざ"見た彼女の足の爪は、彼女の暗示によるコード変換で意味消失をしてしまった様だった。

 しかし、じゃあ僕が憶えているのは彼女の何だろうか。誰かに訊かれたなら僕は答えに困ってしまうだろう。そんなことは訊かないでくれと言うかも知れない。勿論誰も、僕にそんなことは訊かない。彼女も、だ。

 そこには暗示の様に彼女の言葉があって、その言葉だけが明確に記憶されており、それをキーとして彼女に纏わる僕の記憶の一切がある種の管理をされているのではないかという錯覚に陥る。彼女はただ、「憶えておかないでね」とだけ言うのだ。

 その暗示が、防壁なのか優しさなのか、僕にはわからないがそれは構わなかった。いずれにしてもそれは愛おしいものに違いないからだ。