帰宅

'10.10.27

 最寄りの駅で降りると陽はとうに落ちており、猛暑だった夏の面影もなく冷えた空気の層が音も立てずに流れていた。

 その層の一つの匂いが鼻腔に流れ込むと、ふいに、ここは見知らぬ土地で、自分は何かから逃れて流れ着いたのではないかという妄想に囚われた。周りにはそれと知られては都合が悪く自然に振る舞わねばならないのに、警戒している体(てい)で駅前のロータリーを歩いてしまう。顔は前を向けたまま、目玉だけが奥の建物のエントランスから順に4箇所の大きな出入口をスキャンする様に確認し、周りの人の流れを整理して把握する。

 頭上のマンションの一室から、はしゃぐ子供の声が聞こえる。あるいは娘の友達なのかも知れないのに、何故だか全く知らぬ土地の全く縁のない家族の団欒を思い浮かべる。幸せな家族なのだろうか。何が幸せの、家族なのだろうか。俺に分かる訳がない。

 ジャケットの下にはサスペンダー様のベルトが掛かり、そこにズシリと重い塊が吊り下がっているのを想像する。左肩が僅かに下がり脇が開くのを、誰にも気取られぬように正す。22口径だが、競技用の様に太い銃身(バレル)がこの銃の重量を嵩上げしている。この銃身があるから安定した連射が出来る。近接して撃つために弾の威力はあまり必要ないが、小口径のため弾数で面を稼がねばならない。

 ダブルタップ射法。セオリー。正面なら左目。後ろからなら頸。

 “いつもなら前を通り過ぎるだけ”の様な地元の酒場に入る。五十絡みのママと思しき女が、カウンターの奥から警戒色を隠そうともせずに胡散臭そうに「いらっしゃい」と口にする。

 バックバーを一瞥するも、子供の落書きのような酒瓶が並ぶだけ。スーパーで見掛ける様な酒瓶に愛想を返し、指差して「シングル、ストレートで」と言う。

「お客さん、初めてね」
「いつも前を通って気になっていたんですよ」と今度は女に愛想を返す。

 こんな店、いつからあったのだろうか。先週出来たばかりのような気もするし、住み着く前からあった様な気もする。いや待て、そもそも初めて来た街ではなかったか。

 オールドファッションドグラスでストレートを2杯舐めて店を出る。女は宇宙人でも見るような目つきで俺を見送った。二度とは立ち寄らぬ店である気がしている。

 見覚えがあるのか、ブリーフィング時に画像を見たのか、何にせよ見知った街のつもりでこの街を歩き、見知ったつもりで1軒の家に辿り着く。

 鍵は開いていた。ドアを開けて入り、只今帰った旨を告げてもどこからも反応がない。

 “娘”の名前を呼ぶも、返事がない。三和土にはあちこちに向いた子供の靴が1足。2階には人の気配を感じる。

 奥から、宅配便の段ボール箱を抱えて三十路の女が現れる。一瞬、私に非難がましい視線を向けたかと思うと、すぐに手元に戻した。

「迎えに出ろとは言わないが、返事くらいさせないと」
「そんなこと、今まで言ったこともないでしょう。今更しないわよ、そんなこと」

 女は吐き捨てる様にそう言いながら箱を玄関脇に置き、開封を始める。

 女の肩に軽く触れると、女は躰を捻り私の手から逃れようとする。何なんだよという思いが込み上げて「おい」と、背に手を触れると、「触られるの厭だから」ときつい口調で咎め、箱をそのままに奥の部屋に移った。

 家に上がりながらもまだ着たままだったジャケットの前身頃に手を滑り込ませると、冷たく密度のある塊に指先が触れる。その脇に厚い革の感触。ストラップのスナップをプチリと外すと、掌の中に銃把(グリップ)が滑り込んで来る感覚を覚える。親指の、第一関節の辺りに丁度丸い突起が齧り付くように引っ掛かる。このまま安全レバーを押し下げながら抜き出そうか。あるいはスナップを押して填め直すか。迷っているのは頭の中だけで、実際には反射的に抜き出した物を真っ直ぐ突き出しながら居間に踏み込んでいる。

 セオリー。正面なら左目。後ろからなら頸。

 頭の中で復唱しながら見開いた両目は照星と照門の上にキッチリ像を結ぶ。革張りの靴底がフローリングの床を叩き、人差し指は全くの無意識に、2回、引金を引く。

 撃ち損じた。何故だ?

 今度は意識を集中して引き直す。何度も引く。続けて引いていた。「チキンチキン」と開いたガラスのドアに跳ねた空薬莢が、焼けたまま頬に当たって来る。火傷の痕が残るかと思う位に熱い。替えの弾倉は無いはずが、このまま無限に撃ち続けなければならないという思いに駆られて撃ち続ける。

 「お前はどこから来たんだ」と俺は女に訊きたい。しかし答えは知れている。「あなたこそ、どこから来てどこへ行くつもりなのよ」と。間違いなく澄まし顔でそう訊ねて来るのだ。

 誰もいなくなった居間に、靴を履いたまま立ち尽くしているのはなぜだ? 引き金を引いているはずのこの指は、一体何をザッピングしているのだと思う?

 俺に分かる訳がない。


この作品は、mixiの「お題に合わせて短編小説を書こう」コミュのお題「秋風」に参加。字数制限はコミュの仮規定2000字に準拠。