可能性

'10.5.23

 開始を告げるホイッスルが響く。私のイメージの中のプログレスバーには、残り時間が表示されるが、残量表示は増減を繰り返し、バーの縮小は遅々として進まない。どちらにせよタスクは始まったばかりだ。

 今朝、出掛ける際の家人の言葉が、脳裏に蘇る。

「頑張ってね」

 頑張る? 何をだ?

 いつぞや見たTVのドキュメンタリーか何かで、養護学校の中年女教師が言っていた。

「“頑張ってね”というのは無責任な言葉だと思います。私は“頑張ってね。私も頑張る”と言います」

 その時、腹の底に気持ちの悪い泡沫が沸き上がる感覚を覚えた。何て鬱陶しいんだ。誰かに一緒に頑張って貰いたいなどとは毛頭思わない。自分が頑張るべき時に、ただ、自分が頑張る。それで良いのだ。

 その様なことを考えていたら“球”が飛んできた。

 “球”は吉元宏之の前に転がり、彼は反射的にそれを手にした。しかし彼がその“球”を活用することはない。そのまま石垣伸之に渡し、石垣伸之は、その“球”を得たことを自分の手柄の様な顔をして相手に投げ返した。

 先週末に開かれたという執行側の会合では、自分の得た球をエリア内の味方にそのまま渡すことを禁じるか否かという事について討議されたと聞く。その様にしなければ、上の立場にいる人間が“球”を独占するため周囲にパスを強要するという、ある種のパワハラの温床となるのではないかという懸念かららしい。私に言わせれば笑止である。その様な事まで執行側にご配慮いただかなくて結構である。そもそも我々には我々の事情があり、自治もある。それこそ我々に対する自治権の侵害と言えよう。

 石垣伸之は、結局“球”を活かすことが出来なかった。吉元宏之に八つ当たりの様な視線を投げるが、彼はそれをするりとかわして、おそらくは内心舌を出しているに違いない。「お前が、譲れと言ったんだろうが」という奴の心の言葉は、周りにいる男全員に聞こえていただろう。

 そこへいくと、女共の方はまるで蚊帳の外の様な顔をしている。端の方で固まって何事か私語にかまけていたりする。「此処に蚊帳の外なんてあるのか?」。私は心の中でそう呟いてみたが、勿論それはどこにも届かない。

 一人だけ、前の方にふらりと立っている女がいる。吉崎美香だ。およそ身体を動かすことを考えていない様な服装をしている。丸まった短いスカートの先から、抑揚の少ないメロディの様な曲線を白い脚が描いている。一瞬、私はそのメロディに心を奪われた。

 次の瞬間、私は現実に引き戻される。引き戻されて足下に跳ねる“球”を認識した。

 反対側への移動を余儀なくされた私に、石垣伸之が「女の脚なんか見ているからさ」と吐き捨てるように言う。それがどうした? お前の失態に較べて恥じ入らねばならないほどのことか? 私は逆に奴を鼻で笑ってやった。

 我々は、この様にして、実体であれ形而上であれ、狭苦しいコートの中で、球や、欲望や、つまらない感情や、何やらをぶつけたりぶつけられたりし続ける。おそらくは、ずっとそうであろう。

 しかし閉塞感はない。むしろ可能性は無限大だ。少なくとも今はそう思える。我々はまだ小学4年生だからだ。


学童のドッヂボール大会の練習試合で、「コート内の横パス禁止ルール」が適用されるのか、審判に子供が訊いていた。なんでそんなルールがと怪訝に思い私も訊いてみたところ、独占したがる子に球が集中しない様にという配慮なのだそうだ。それを余計なお世話と感じるのは子供も同じではないかと考えていて、この話を思い付いた次第。
今回の作品は、mixiの「お題に合わせて短編小説を書こう」コミュのお題「ゲーム」に参加。本欄のみの公開予定だったが、テーマに合致していたため参加。字数制限なし。