誰かに似た

'09.5.26-27-28-29



 いつもと違う改札から駅に入ることになった。近くで煙草屋を探したためだ。

 階段を上りきったところでホームに列車が入ってきたのでそのまま飛び乗る。別に急ぐわけでもないのに無意味なことをしてしまったと考えている内にK駅に着く。列車を降りると目の前が階段だったのでそこを降りた。そのため、いつも使うのとは反対側の口に出てしまった。

 会社が反対側なのは分かるが、駅の外をどう回って行けば辿り着くのか思い付かない。ここの営業所に配属されてから1年が経つが、考えてみれば会社との往復以外で駅前を歩くことはなかった。まあ、歩き回ってもさして面白くもなさそうな街なのではあるが。何か特に面白い施設があるわけでもない。ひたすら居酒屋と、金貸しと、風俗と、後はゲームセンター位しか目に入らない。

 それなのに、帰路につく人の流れを縫ってふらふらと歩くうちに、今日はもう直帰にしてその辺の酒場で1杯呑っていくかという気になった。なぜだかは分からない。

 会社に電話を入れると、愛想のない総務の女が、営業はもう誰もいないと言う。「へぇそんなこともあるんだ、珍しい」と思ったが、彼女相手にそんな言葉を返す位なら駅のトイレで独り言でも言っていた方がましだ。個人的な感想は口には出さず、ボードの書き換えだけを事務的に頼んで電話を切った。

 呑むと言っても当ては何もない。昼飯すらこの辺りでは摂っていないのだから、どこら辺に何があるかの見当も付かない。居酒屋の看板がやけに目立つが、この辺の居酒屋に1人で入るのもあまりぞっとしない。いわゆる立ち呑みというのも結構あるが、「再生」だの「開運」だのとしみったれた文字の貼り付けられた酒場で、見知らぬおっさんに囲まれて安酒煽るなんていうのも勘弁だ。適当なバーでもあれば良いのだが。

 探し回るのは面倒臭いなと思いながら歩くと、少し行った角を曲がった所に、ちょっとうらぶれた感じのカウンターバーが1軒あった。

 1歩入って何かおかしな感じがするなと思ったが、まあいいやとカウンターの端につき、ビールを頼んだ。

 ドラフトは? レーベンブロイか。何でまた? まあいいか。

 一息ついて店内を眺める。7人掛けくらいのカウンターと、小さいテーブルが2つ。先客はカウンターに1人。まだ早めの時間だからこんなものか。照明もやや落ちていて、一瞬、今が何時かわからなくなる。

 ビールを3口ほど呷ると、程なくさっきの「おかしな感じ」の理由が分かる。カウンターの客、なぜかどこかで会ったことがあるような顔なのだ。「〜ような」というからには、つまり、実際には知り合いではないのは分かる。しかも誰だっけと考えてもすぐには誰だか思い出せない。でも”感じ”だけは分かる。バックバー壁面の鏡に映る顔をちらと見て、呑みながら考える。

 そうだ、この男は前の会社の上司に似ている。

 馬が合わないと言うか、馴染めないと言うか、自分とは人種が違っていた。話題にすること、読む雑誌の種類、飯の食い方まで全然違っていた。こんな人間と一緒に仕事なんかできるものかなと思っていたら、やはり上手くいかない事が多かった。会社を辞めたのはそれが理由ではなかったが、”上司”の方はそうだと思っていたふしがある。俺のことを日頃使いづらい奴と言っていたらしい。自分の方が意識していたのだろう。

 俺のことをどう思っていたかはどうでも良いとして、自分の身内を親しくもない者に悪く言う人間とはうまくやれない。”上司”はそういう種類の人間で、自分の妻が料理下手で、つまらんカルチャースクールに通っているのを無駄だとよく周りに言っていたし、聞きもしないのに娘のことは先ずデブだと言う。親しくもない私が覚えているのだから余程頻繁だったのだろう。

 あの男に似ている。この男の方はあまり見ないようにしよう。

 悪い予感がよく当たるというのは当然のことだ。幸運を掴むには訓練が必要だが危険察知は本能だからだ。そして回避にも訓練が必要だ。ともあれ、俺は動物的本能によって危険を察知し、そして間抜けにも訓練不足でそれを回避できなかった。

 苦手だと思っているタイプの人間に限って、向こうから接触してきたりするものなのだ。

「ここはよく来るんですか?」

 席3つ隣の俺に“上司”はわざわざ声を掛けてきた。バーテンがビール樽の交換に手間取ってしばらくカウンター裏にしゃがみ込んでいて話し相手を失ったため、という雰囲気だった。

「いえ、初めてです」

 1杯呑んではいたが、俺は反射的にオンタイム用営業スマイルで返した。もっと無愛想な方が良かったのかも知れない。

「わたしもねぇ、まだ2回目なんですけどね」

 酒場では無闇に人に話し掛けないというのはマナーだと思っているのだが、あれは日本以外の話だったか? 面識のない人に軽々しく声を掛けるのは失礼だろう。下町の居酒屋じゃあるまいしと思う。

「この店、ちょっと良いですよね? 隠れ家っぽくて」

 “上司”は、やっと立ち上がったバーテンの方をチラと見ながら俺に言った。バーテンは不明瞭な笑みを浮かべてグラスを磨き始める。

「お勤め、お近くなんですか?」
「いや、そうでも…」
「わたしもこの辺じゃないんですよ。かと言ってねぇ、家の近くじゃ気も休まりませんしねぇ」

 そんなもんかね。どこから遠かろうがあんたがいたんじゃ気は休まらんが。

「それに女房は、近くで呑むなら家で呑むのも変わらないでしょうと言うんですがね。女には分からないでしょう」

 俺が曖昧に頷くと、“上司”は「でしょう、でしょう」と大袈裟に言った。

 今夜は不味い酒で悪酔いする夜なのか。

「お住まいどちらなんですか?」

 “上司”との間につまらない営業用ロープレが組み上がり始め、腹の底ではうんざりモードになった俺に会話のタームが回ってくると同時にバーテンが割って入り、“上司”に話を振った。帰りが遠いのもお辛いですよねとか、隣の駅には結構良い店がありますよとか。いつの間にか会話は“上司”とバーテンのものになっていた。

 どうやらまともに機能する酒場だった様だ。

「おやっ、もうこんな時間か。じゃ、わたしはこの辺でお先させていただきますよ」

 “上司”は私に一礼をすると勘定を済ませて出て行った。

 軽い溜息をつき終えると「どうされますか?」と訊かれたのでハードリカーに移ることにした。このまま帰るのも心地悪い。

 適当なウイスキーをロックで頼む。グラスが置かれると、粗く角だけ落とした氷が中でゴロンと小気味の良い音を立てた。

 ああ、これが良いんだよ。たまに、場末のバーのくせに得意満面で丸氷で出してくる店があるが、あれはあまり感じの良いものではない。こちらがカウンターの木目を辿っている内にすぐ氷に“筋”が付く。まるで目盛の様なその“筋”に時間を計られている様で気分が悪い。それを誤魔化すようにいちいち中指でからから回すのも鬱陶しい。

 それにしても…。

 最後に辻褄が合いはしたが、今夜は一体どこからボタンを掛け違えていたのだろうと考えながら呑んだ。いつもと違う改札から出たところ。いや、切らした煙草を得意先の近くで探した辺りからか。そもそもが、あまり取り扱われていない銘柄に固執する自分自身の問題か。

 そういえば煙草を吸っていないことを思い出す。結局いつもの銘柄は買えず、そのままにこの店に入ったのだった。

 何やら気が抜けた勢いで訊く。

「ダビドフ・ライト、置いてますか?」
「ありますよ」

 口の端を歪めて笑う俺を、バーテンはやや訝し気に見た気がした。