コート

'11.3.17

 今年は突然冬が来た。いや、昨年もこんなものだっただろうか。年々季節の変わり目を唐突に感じる様になっているのは、気象の変動なのか、それとも単に自分が歳を喰ったということか、判別が付かない。

 いずれにしても、気が付くと物事が変わっているというのには、急に変わっている場合と、単に気付くのが遅いという場合がある。

 クローゼットには冬服と夏服が入り交じって掛かっている。広めのクローゼットだということもあるが、要は私がだらしないのだ。中にはクリーニングにも出さず掛けっ放しで次の年を迎えている場合もある。三十過ぎの大人がこれでは駄目だろうな。

 焦げ茶のウールコート。昨年はよく着ていた。これもクリーニングに出していない。大概の出し忘れは、シーズン頭に出すのだが、さてこれはどうしたものだろうか。

 ハンガーから外して手に取る。つい、胸元辺りに顔を近付けて匂いを嗅いでみる。彼女のフレグランスが残っている訳もない。

 壁のハンガーへ掛け直し、暫くクローゼットの中を整理する。「このスーツ、今年はもう駄目だな」。「おや、こんな生地のジャケットなんて持っていたのか」。一人で整理をしていると、つい声に出していたりする。

 選ぶ時にはあれこれ拘るくせに、買って何度か袖を通すとどうでも良くなる。翌年には持っていたことすら忘れてしまうこともある。

「私のことも、忘れちゃうのね。きっと」

 彩がそういう言い方をする時は、半分冗談めかしながら、それでも妙に諦めきった様な顔をしていた。「人を記憶障害のある病人か何かのように言うなよ」と笑って言うのだが、実のところコートを引っ張り出すまでは、二人で歩く時の彼女の癖のことは忘れていた。でも彼女を忘れていた訳じゃない。

 左のポケットだけ、縁が少し傷んでいる。彩は私のポケットに手を突っ込み手を繋ぐのだった。

 つきあい始めの頃は、それが何か新鮮だった。それまでは、コートの左ポケットの底には、のど飴や文庫本の挟み込み広告やコンビニのレシートなんかが放り込みっ放しになっていたりしたが、そういう物はゴミ箱と鞄へ移し、それから中の生地をひっくり返してガムテープで埃取りまでした。何だか彼女を迎えるために自分の部屋を掃除しているみたいだと思った。

 余程寒がりなのかとも思ったが、「コートのポケットの中だと、周りから見えないのが良いの」と彼女は言う。「全部の指を、ぎゅうっと絡ませてるのって、なんか恥ずかしいじゃない?」そうかな。手を繋いでいるのは、どう繋いでいても同じだという気がするけど。そして一つのポケットに二人で手を突っ込んでいる限り、その二人は明らかに手を繋いでいる。

 何も入れなくなったポケットだが、中に物を入れていたことが1度だけあった。彼女の誕生日に、プレゼントの小さな包みを入れていた。ちょっと気障だなと思ったけれど、「なぁに、これ?」と訊かれると、つい興奮して答えてしまう。でも彼女は目的地まで取り出さない。歩きながらずっと「楽しみ」と言っていた。

 凄いな。たかがコートのポケットだけで、こんなにいろんな事を思い出すなんて。どうだよ、忘れてなんかいないじゃないか。誰に誇ってるんだか良く分からないが。まあ、彼女にではないな。いないのだから誇り様もない。

 そんな話をしても多分喜ばないし。そんなことをいちいち覚えているのは男の方だよと言うだろう。でも、実のところ、クローゼットからこのコートを引っ張り出すまでは忘れていた。でも、忘れていたかったから忘れていただけだ。

 思い出してみると、別れる直前まで彼女は私の手をポケットの中で握っていた。つまり、彼女の気持ちは急に冷めてしまったのか、あるいはそれを悟られまいとそうしていたのか。それがどちらなのかは全く分からないが、ひとつ確かな事がある。

 別れたのが冬だったということだ。