初日

'11.8.1

 ベージュのスーツに焦茶のシャツ。朝にそう決めていたが、用意を始めると今日はいつもと違うタイにしようかと思い立つ。しかしいつも着けない様なタイは、そもそも持っていないのだった。結局、ダークグリーンにライムのピンストライプが入ったタイを選ぶ。

 いつもと違う自分を演出しようにも、道具立てはいつもと急には変えられない。かと言って、朝っぱらからその辺の店に飛び込んで例えばピンクドット柄のタイなんか買うのもどうかしている。

 そんなことを考えていたので、いつもは目に入らない様な、改札を出た正面に出店しているビジネス小物の催事店に目が行ってしまう。しかし店先のタイを一瞥すれど、どうにも気に入りそうな柄は見つからない。尤も催事ではなくそれなりのショップだとしたら、気に入る物が見つかって、そしてタイを買っているだろうか。想像が付かない。

 物を買うということには何かしらの高揚がある。今の自分に必要なのは、要するに実在としてのピンクドット柄のタイではなく、ピンクドット柄のタイを買う自分という高揚なのだろうか。いや、それよりはいつもと違う物を身に着けるという変身願望という方が近いか。ピンクドット柄のタイを締めると幸せになれるかね? 誰も同意はしないな。賢明な人はさあねぇと愛想笑いを返すだけだろう。

 朝からそんな事を考えているようでは、当然まるで調子は出ない訳だが、調子に関係なく大半の仕事がこなせない様ではいかんだろうな。

 「課長。今日の午後、Pコーポレーションなんですが、見積承認の件どうなっていますでしょうか?」

 グループウェアで確認できる話だが、彼女は新人なので仕方がない。しかし何かにつけ直接私に訊いてくることが多い。面倒だな、と思ってはいけないのだろうが。

 「課のフォルダに入ってるよ? 大丈夫。そのまま持って行けるよ。この間君の言っていたことは通ってるから」
 「あっ、すみません。ありがとうございます」
 「細かいところは吉田君に指示仰いで」うまくやっておいてくれと念ずる。

 日常難なくやりとりしているはずのことも、今日は自動応答で返している様な気がしてくる。気がないんだなこれは。今日ぐらいは良いだろうと勝手に考えながら、しかしこういう時に限って面倒くさいコミュニケーションが必要になることが多いのかも知れない。早く1日が済まないかと、念じながら1日を送る。念じてばかりだ。

 念じたなりに1日は過ぎるのだが、さていざ帰れるとなっても、すんなり帰る気がしない。勢いでもないが、馴染みの店に何となく入ってしまう。いつもとは少し違う順番で呑み始めたせいもあり、2杯目で店主が声を掛けてくる。

 「今日は、お一人ですか?」

 本来は、まあ余計な世話なのだが、「まあね、たまには」位を返す。その連れは、一人でここに来たりはしない。そう確証があるから逆にここへ私は来ている訳だが。すると他の客が何か頼んだので彼女は奥に下がる。

 やけに店内が明るく感じるのはまだ時間が早いからか。照明を落とすのに時間なんか決まっていたか? 記憶にはない。

 これ位明るいなら本も読めるだろうと、読みさしの文庫を取り出して読む。意外にこういうのも良いかも知れない。生意気盛りの二十代には、そういえば大して馴染んでもいない店のカウンターで文庫を開いたりしたものだ。

 3杯目を頼んだ辺りでまた店主が話し掛けてくる。

 「珍しいですね。続きが気になる程面白いですか?」
 「エコで読んでるだけだよ」
 「?」
 「本でも読んで酒の進み具合も落ち着くと思って。ところが…全然だね」自分でオチを付けてりゃ世話もない。
 「いつも通りの調子、だと思いますよ」と微笑む。

 一人にしておいて欲しいというのと、一人になりたくはないというのは、矛盾している様で矛盾していない。少なくとも、そういう気持ちを満たすことが出来る場があるうちは、分かる。その意味で、酒場に来るというのは正しい。しかしこの店に来るというのは誤った選択だったのかも知れない。

 しかし今後もこうして何度か通う内に、「今日は、お一人ですか?」とは訊かれなくなるだろうし、私は一人で来るものなのだと思われる様になるかも知れない。そうするために通う? 馬鹿らしいな。そもそも書き込む記憶がなければ、上書きにもならないんじゃないか?

 ぐるぐるとそんなことを考えながら、取り敢えず今日は初日だし、まだ何も変わっていなくて当然だろうと思う。結局文庫本なんか要らないし、あってもなくても呑むペースは変わらない様だった。