アソートチョコレート

'10.11.1

「おひとつどうぞ」
「ひとつでないといけないの?」

 貰い物のチョコレート。デパ地下にガラス張りのショップを出店している様なブランドの物だ。一人で食べる数じゃないし、アソートで、表記も面倒くさいことがイタリア語で書かれているので、取り敢えず『アルテ』に持って来た。中にゼリーでも入っていたらモルトを飲りながら囓るには合わないだろうが、サービスで出す分にはそれなりの物だし構わんだろう。そして、店主が包装紙を剥がしたところで美華が来た。

「人に物を勧めるのに『“お幾つ”どうぞ』はないだろう。好きなら全部食べても良いよ」
「それなら箱ごとくれれば良いじゃない」
「それじゃあ意味が違うよ」
「なによそれ」

 と言う辺りで一粒口に放り込む。この無神経さ加減が可愛いんだろうな。

「やだ美味しい」
「旨いのに『やだ』はないだろう」

 やばいなどと言わないだけましかもしれないが、俺もそこまで許容幅はない。時々分からないことを言うが、これ位がとても可愛い。

 この娘とよく一緒にいるのは、単純に好奇心のためだった。二十近くも歳の違う相手はどんなだろうという、要するにそういうことだったのだと思う。これが俺と同世代の他の男ならばいろいろ気持ちに引っ掛かる問題も出てこようが、幸か不幸か俺は全くの独り者で、「娘の歳の方が近い」だなんてことにはなり様もない。

 半年程前だったか、『アルテ』のカウンターで世間話のついでに美華の恋愛話を聞いていた。一対一でまともにそういう話をする様な年齢差でもないが、通り一辺倒に相槌を打ち続けるのも退屈だったのでそれなりの意見も差し挟んでみたりした。よく言われる様な説教臭い話ではなく、もとより人に説教を垂れられる程の生き方なぞしていない。ところが、そんな話をしているうちに、自分の話をするだけでなく、こちらの話を聞くようになった。

 それ以降、顔を見れば隣席に滑り込んでくるようになったし、最近は夕刻になると「今日は『アルテ』寄りますか?」だなんてメールを寄越すようになっていた。なつかれたらしかった。なつかれると愛しく思えてくる。そんな言い方をすると、野良猫じゃあるまいしとも思うが。

 それにしても初め戸惑うのがそのメールか。デフォルトがデコメ。いくら定額パケットサービスでも、無駄に重いメールを送るなんてナンセンスだろう。同じキャリアなのだからショートメールで良いじゃないかと言ったことがあるが、何の話か分かっていない様だった。まあそれも極端にケチくさいか。しかしおかげでこちらは余計なアニメーションデータでデータフォルダが埋まってしまう。画像もよく添付されてくる。大概は「これ面白いでしょ」的コメント付きの何かのアップ。元々通信ガジェットは嫌いじゃないので然程苦にはならなかったが、それにしてもという気がする。40代オヤジがケータイ両手早打ちというのは傍目にはみっともない様に思う。

 ある日、少し遅めの時間に『アルテ』へ寄ると、“メール告知”なしに美華が現れた。いつになく暗い表情をしているので、あえて直近の話はせず、以前聞いた意外に面白かったという本を読んでみたよとか、先日常連の何某が珍しく女の連れと一緒で、これが職業年齢不詳なんだよとか、そういう遠回りな話を続けた。彼女には何も問い掛けない。暫くすると少し晴れた表情になってきたのでそのまま雑談は終わり。まあ特に面倒には思わない。どうせ先々週辺りから話の出ていたオトコが原因だ。付いたばかりの傷には触れない。それだけのことだ。俺は“医者”じゃないからどうしてやり様もない。

 もっともそれは同世代に対する対応だったんだろうなと後になって思った。歳を喰っても分からないことは分からないものだ。初めから喋らせてあげれば良かったのかも知れない。「わざと話題“ずらしてる”よね?」と言うので「うん。話したくなるまで待ってた」と言ったら、怒濤のように一通り話すだけ話した。本当に“話すだけ話した”感じだった。

「すっきりした」
「そういうものか?」
「…やっぱり歳上の方が落ち着いていて、優しいよね」
「そうでもないよ。“落ち着き無くて、やらしい”よ」
「やだ、おやじギャグ?」

 本当は“落ち着き無くて、やらしい”位になりたいのだが、実際の俺は、優しいかどうかはともかく、落ち着き過ぎて白けている。万事につけいろいろと踏まねばならないステップを想像するだけでうんざりするのだ。そんなことを一瞬考えてしまったが、一瞬ではなかったらしい。

「やらしいって言っても、あたしみたいにヤリたい盛りって訳じゃないよね。大人だもんね」

 これは、自分の発言に俺が気を悪くしたと思ってのリップサービスか。それにしても、そんな時期が自分にもあっただろうか。そして、そんな時期に付き合っていた彼女はそんなだっただろうか。全く思い出せないということは、自分の周りにはそういうものはなかったということではないだろうか。

 街中で見掛ける肌の露出が激しい女の子達を思い浮かべてみる。勿論、見た目が必ずしも中身を表しているとは限らないが、ああいう感じとは確かに縁はなかったな。と言うより、単に俺が女の子にそういうものを求めていなかっただけの様な気がする。いや、本当にそうか今となっては思い出せない。

「自分のそんな時期に覚えはないし、ヤリたい盛りの女の子となると全くのファンタジーだね」と、そんな事を言う。
「あたしは、すぐ濡れちゃうんだよね」
「誰にでもって訳じゃないだろう」
「金井さんなら濡れると思う。試してみようか?」

 何か、ステップを踏んだか? 手続きがごっそり抜け落ちている気がする。

 そのくせ、ある時に彼女は印象的なーー後にして思えばだがーー台詞を口にした。

「そんなにセックスすると、飽きちゃうよ?」

 思わず「俺が? 君が?」と聞き返す。何かの詩か、禅問答みたいだ。

「そうかなぁ。俺は抱けば抱くだけ好きになるけど」と続けて真顔で言う。「もう、馬鹿じゃないの」。

 よくよく考えれば、彼女の不安は尤もなことだ。「好き」の度合いが強くなれば、対比として「飽き」の幅も大きくなるということでは、飽きる可能性も総体としては大きくなるとは言える。

 「しかしね、それは“死なないためには生まれないこと”みたいなパラドクスだよ」と言おうと考えていたら、彼女は「女はね、やり過ぎると痛くなくなるのよ。そっちの方が問題よ」と言った。それはさっきのとは全然違う話だし、大体、どこかで聞いた様な台詞だ。

 しかし話は、彼女が抱きついてきてそこで終わり。

 帰り際、「君が?」と意地悪で訊いてみる。

 半ば涙目になった彼女は、黙って鼻先を腕に擦りつけてくる。「ごめんなさい」と繰り返して言い、止めどない涙が暖かく腕に降り注ぐ。若いって、こういうことが不安になるんだと改めて思う。あまりに愛しくて、抱きしめて、髪をぐしゃぐしゃと撫でる。

 しかし結局、美華とは半年後に別れた。何かを説明された気がするが、何を説明されたかが分からなかったので、コメントのしようがなかった。説明した本人にもよくは分かっていなかっただろうと思う。

 自分なりの結論としては、要するに、彼女がこの関係に飽きたのだろうということだった。しかし、かの台詞無しに果たして彼女の心情がそうなったものか、俺は懐疑的だ。カーブを曲がるバイクは視線の方向へ曲がるのだということもあるし、「言の葉に言霊宿る」とも言う。そんなことを考えながら、いや違う違う、理屈ではなくて感情の問題だったなと思い直す。それじゃあ俺に分かるも何もないだろう。

 手に取ったアソートチョコは、一口囓れば何味かは判る。それ位には齢を重ねた。でも相変わらず、見ただけでは中身は判らないし、好きな味にばかり当たる訳じゃない。そして問題なのは、結局どれも俺には同じ味に思えるという事だ。

 美華は『アルテ』にはすっかり顔を見せなくなった。

「ラフロイグ。ストレートで」

 店主はふと手を止め、一拍置いて訊く。

「貰い物のチョコレート、あるんですが、いかがですか?」
「俺が? いやいいよ。遠慮しておく」

 そう返すと、不思議に苦笑いをしてしまう。それを見て店主は困った顔をする。

 君が困った顔をすることもないだろと、心の中でだけ言ってみる。