「ビールです」

'03.4.21

 しかし何だな、日頃は目に触れることもない会社のシステムも、たまに目の前に現れると意外に物珍しく感じるものだな。多分、政治とか国っていうのも、こんな風に突然現れるものなのだろうな。

 珍しくバーに入ってからも仕事のことなぞ考えていた。大体が平生は−

 「ビールです」ドン。

 私の思考を遮る様に、目の前のカウンターに斜め後ろからジョッキを置いたウエイターが、まるで舞踊の"形"か何かの様にひらりと手を返して脇に下がった。私は半分怪訝そうな目で彼を見た、らしい。

 「ご注文の、ビールでございます」

 「はい。ありがとう」と、答えてあげた。彼は満足そうな笑みを浮かべて下がった。

 そう、ビールだ。私が頼んだ。オーダーミスではない。 特に時間が経ってしまったわけでもなく、適度な間で出されて来たのだと思う。考え事をしていたのでその辺の時間経過についてはちょっと自信はないが、そんな位だから別段苛々して待っていたわけではない。彼の所作も言う程そんなに変なわけではない。ありがちな感じだ。

 にも関わらず怪訝そうに彼を見てしまったのは、彼がカウンターに置いた"それ"は「ビールです」と宣言して出さなくても明らかにビール以外の何物でもなかったからだ。

 これがウオツカトニックだったら、ひょっとしたら確認のためにジントニックやウオツカソニックではなくウオツカトニックであると、さり気なく伝える必要があるのかも知れない。

 でもビールはビールだ。ましてやジョッキに注がれている。間違え様がない。

 ホッピーと区別しているのか? 薄ら甘いビール風のソーダで焼酎割ったあれ。まさかと思うが普通のダイニングバーにホッピーはないはずだ。念のためにメニューを開いてみた。あるわけがない。花屋に掃除機は売っていないし、半導体屋にコーヒー豆は置いていない。とにかく、普通のダイニングバーにホッピーはない。

 それから、私はビール以外は注文していなかった。だから、「(まずは)ビールです」と断る必要もない。 でもひょっとしてと思い、ビールとカシューナッツを頼んだ。

 「ビールです」ドン。 ナッツは無言で置いていった。

 おい、一体何なんだ? ビールは分かったけど、なんでナッツは無言なんだ?

 今度はウエイトレスをつかまえて注文した。さっきのウエイターが団体のテーブルの注文を取り始めるのを見計らって呼び止めたのだ。色白でふっくらとした、ちょっとダイニングバーで見ない感じの娘で、声の感じも私好みだ。悩む振りしてビール以外も頼んで言葉を交わしてみたくなったが、彼女を呼び止めたのはさっきのウエイターに持って来られない様にするためなのだ。時間が勝負だ。私は我慢してビールだけを頼んだ。

 「ビールです」ドン。 彼だ。

 私は段々苛々してきた。彼をとっつかまえて問い詰めたい衝動に駆られた。

 「分かってんだよ、ビールだってこ、と、はッ! 何で『ビールです』なんだよ!?」

 上品な色のイタリアンクラシコタイプのスーツに身を包み、今の今まで静かに飲んでいた男が、突然ウエイターにそんな言葉を吐き掛けたら周りはどんなに驚くだろう。いかんいかん、私は良識ある普通の社会人なのだ。そんな行動をとってはいけない。

 冷静さを取り戻そうと、私はメニューを読む振りをした。 すると、メニューには何種類ものビールが載っていることに気付いた。ハイネケン、バドワイザー、コロナ、ギネス…ツボルグもクローネンバーグもある。ヒューガルデンやシメイまであるじゃないか。そしてビールの欄のトップは、

 生ビール(ジョッキ、グラス)

 ああ、これだ。要するに瓶じゃなくてドラフトは、「ビール」なのだ。 私は呑みかけのビールをそのままにして、思わず手を挙げてウエイターを呼んだ。来たのはさっきのウエイトレスだが、今度は余計なことは何も考えず、ハイネケンを頼んだ。

 持って来るのは彼だった。担当は決まっているのかも知れない。

 「ビールです」ドン。

 やれやれ。酔いが回って来たので私はハイネケンを呑み干すと店を出た。