
第1話 芝崎さん
「誰あれ。まさかつきあってるのか? 滝口とは全然タイプが違うな」
蜷川が耳打ちしてきた。そうだ。芝崎さんは夫だった滝口とは違う。勿論、蜷川、お前なんかとも違う。芝崎さんの影がドアの向こうに消えるのを確認してから口角を戻す。
「よく本人の前で訊かずにいてくれたね」
「紳士だからな」
わたしの付き合ってきた男を並べたって、誰も規則性なんか見つけられないだろう。あえて言えば、わたしの好みのタイプは「わたしのことを好きな男」だからだ。わたしのことを気にしてくれる男というだけで、彼らには確かに他の共通項はあまり見当たらない。わたしのことが好きならば、わたしは他の大抵のことは気にならないからだ。多少歳が離れていても、多少お金がなくっても、多少風貌が冴えなくても。場合によっては不倫であっても、だ。
芝崎さんは6つ年上だ。結構お洒落だが、特にお金が掛かっている程ではない。容姿が際だっているわけでもない。それに、結婚している。でもわたしのことをいつも気に掛けてくれている。優しい言葉を掛けてくれる。いつだったかは勢い余って「好きだよ」とまで言ってくれた。要するに「優しい・優柔不断な・イイ人」だ。
誤解のないように言っておくけど、客観的にわたしは多分「イイ女」だ。美人でお洒落でセクシーだ。多少濃い目鼻立ちではあるけれど、整った顔をしている方だしファッションセンスだって悪かない。エステやジムにも金を掛けているからスタイルも肌の具合も同じ年の他の女に比べたら良い方だ。
それにも関わらず、わたしを気に掛け、好きになる男は少ない。言い寄られたり、口説かれたりすることもあるが、大抵はわたしを見ているわけではないのだ。なにか違うところを気にしながら声を掛けてくる。それがよく分かる。よく分かって白けるのだ。
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第2話 生田紀夫
隣に座った女が化粧を始める。膝の上に置かれた柔らかめのバッグの口はだらしなく開いており、ぐしゃぐしゃと指先を突っ込んで道具を取り出す。以前なら舌打ちでもして、時にはそのまま席を立ったりもしたが、今は不思議とそういう衝動には駆られない。職業は何かなと考えたり、こいつ、どんな奴のオンナなんだろうな、そう思ったりする程度だ。
周りの人間のことなんか一切お構いなしに化粧をするのは、水商売や風俗の女とか娼婦だろうと言う奴がいた。ステロタイプだが確かにそんなものだろうなと思う。そして実際に娼婦に訊くと、はたして電車内で化粧をするのだそうだった。
それを訊くと、何か可笑しかった。そうかい、君は化粧するかい。そんな話を前回逢った時にしたのだった。
彩香というのが彼女の名前だそうだ。少なくとも、それが彼女の一番気に入った名前であるらしい。私が予約を入れた“ポイント”では違う名前だったために、呼び出しに答え損ねかけたという。
「なぜ“ポイント”ごとで名前を変えるのかな。同じ“会社”だろ?」
「そうねぇ。今度訊いてみるわ」
勿論彼女が本当の事情なんか知るはずもない。
「とにかく気に入った名前なわけだ。携帯には『彩香』で登録しておくよ」
「あれ? 番号知ってたっけ?」
「ああ、登録するから教えてくれ」
彩香は「それが手なんだ」と笑った。手も何もないだろうと思っていると、両手を出すのでダミーの方の携帯電話を渡す。おもむろにボタンをプッシュし始めるので、それで自分の番号を押しているのだとわかる。携帯を私に返すと、ポーチから自分の携帯電話を取り出し、満足げに頷いて数回ボタンを押した。赤外線だと余計なプロフィールまでやりとりされてしまうが、これなら確実で安全かも知れない。もっともこの携帯は「生田紀夫」という名前になっているので、「確実」なのは登録の精度であって情報の精度ではないことになる。
彩香は今、そういう奴のオンナだということだ。
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第3話 発見
仕事好きのわたしは、1日の大半をビジネスパートナー達と過ごす。自分の仕事仲間をへらへらと口説く奴は仲間にはいない。そしてそれ以外で周りにいる男の大半は、わたしの会社の社員か、バイトか、協力会社の人間か。要するに迂闊にわたしを口説いたりはできない立場の男達ばかりだ。
芝崎さんはそういう立場にはない。馴染みのバーの常連だ。ちょっと良いな位思っていたら、いつの間にか話をするようになっていた。どっちがどう声を掛けたとかではなくて、他の常連と一緒に話しているうちに、なんとなく2人きりでも話すようになった。そう記憶していたのだが、よくよく考えたら、わたしが掛けた粉に絶妙な間合いで乗ってきたのだったと思い出す。客の大半は歳が上の男が多く、わたしははなから対象外扱いをされるか妙に女ノ子扱いされるかのどちらかなのだが、芝崎さんだけは違っていた。それでちょっと興味を抱いた。
わたしは自称「イイオンナ」だけれど、可愛い女ではない。だからなぜ芝崎さんがわたしを気に掛けるのかがよくわからない。ひと周り年下の女なら、絶対可愛くなければ興味を引かないと思うし、わたしは生意気で鼻持ちならない女なのに。
芝崎さんとは4回寝た。過去のことのように言うのは、なんとなく次はないような気がするから。だから傍からつきあっているだの何だのと言われると余計鬱陶しくて仕方ない。「もうしてないってば」と言ってやりたくなる。実際あまり、またしたいとは思わない。
2度目に寝た時、なにか変な感じがした。毎回全くパターンが同じなのだ。首と、それから耳に集中するキスから始まって…、指を絡ませ合って果てる。自分勝手より何倍も良いが、でも「こういうのは女性は好きなんじゃないかな」というような前戯が並ぶと鼻白む気がする。
そして大して重要な事じゃないけれど、問題は、いちいち先が読めて下手をすると所要時間の逆算まで出来そうだということだった。
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第4話 ヒップマニア
「これが生田サンの番号ね」
「掛かって来ても切らないでくれ」
「ホントに掛けてくるのぉ?」
彼女は「掛けてくれるの」とは言わない。大概の商売女はもっと媚びた物の言い方をするものだが、妙にあっさりしている。それでいて私に何の興味もないわけではないらしいのだから不思議だ。
「いきなり着禁してたりして」
「意味わからんよ」
「だよねぇ」
服を脱ぎ始めると、彼女は私の尻を軽く撫でる。初めて会った時もその様にして「あたし、ヒップマニアなの」と言っていた。妙に嬉しそうに「良いカタチだね」と言った。「野球選手か何かでも好きなのか?」と訊くと、そうじゃないけどと笑った。
ステディな相手の尻も撫でているのかなとふと思う。きっとそれはないのだろう。自分もそういう相手にはその手のコミュニケーションは取らない気がする。そういう相手はしばらくいないのでわからないが。同僚に風俗嬢とつきあっているのが自慢の奴がいたが、訊いてみれば良かったな。
もちろんそんな話は同僚とはしない。誰とも、しない。
「君は綺麗な耳をしているね」
以前、貴子にそう言ったことがあった。それが彼女の喜びそうなところだからそう言っただけで、貴子の耳はいたって平凡だった。首から上を褒めるのが、彼女との関係性から必然だとも考えた。一流のエステで手入れされた肌。形容するのに時間の掛かる香料が匂い立つ肌は、なぜだかデパチカの洋菓子売り場の様な香りがした。
自分としては随分いい女と付き合ったと思うが、しばらく腹の底に石ころを押し込められたような違和感を覚えていた。しかしそれは「こんないい女がなぜ私なんかと?」とかいうものではない。むしろ「ただ、温もりがあれば良いのに、なぜこんなに手間暇の掛かる女と付き合う必要があるんだ?」というのが違和感の原因だった気がする。
その頃から古賀町に出入りするようになった。
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第5話 下着の脱ぎ方
好きな男に抱かれるのだから、初めは夢中でそれどころじゃない。でも2度目の時は、彼も少しは酔っているはずなのに、手順が同じだという事に気付く。
おへその周りのキスは飛ばしてくれて良いのに、でも丁寧に3周する。初めての時と違って、もうそういうことになる予定で来ているのに、初めての時と全く同じステップだと何か焦れったくなる。ああ3周だなと憶えたものだから、3度目の時も3周だと気付いてしまう。あれ、この時右手は…、そうだ左の内腿を撫でていたんだ。なんて具合で興ざめする。
3度目の後でわたしは芝崎さんに、やや冗談ぽく訊いた。
「順番に、何か心に決めたものでもあるんですか?」
芝崎さんの瞳は一瞬焦点を失い、少し間があってからわたしの目を見て返事をして来た。
「君はどんな風なのがいいのかなぁ」
戯けたような口調で訊くのでこちらはストレートに返してしまう。
「自分の好きなようにすれば良いんじゃないですか? 身勝手は厭だけど、あまり気を回されても嬉しくないですよ」
終わったと、いつもなら思うところだが、なにせ相手は芝崎さんだ。案の定いつもの笑みを口元に湛えたまま「そうか。そんなものか」とだけ言った。
今ならまだ、わたしは芝崎さんのいろんなことを思い出せる。場合によっては思い出すだけで幸せな気持ちになれるようなことを、思い出すことができる。でもこのまま逢わなくなってあと2年くらい経ったらどうだろう。あの妙に律儀な愛撫だけを思い出したりするんじゃないだろうか。何よりそれが厭だった。
「蜷川」
「何かね」
「昔のオンナの、どういうことを覚えてる?」
アイラ系の薬臭い息で一拍置いて言う。
「吉行淳之介はシュミーズの脱ぎ方で覚えていると書いていたな。あ、『シュミーズ』ってのは原文ママだぜ。俺が言ったんじゃない」
「訊くんじゃなかった」
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第6話 髪を撫でる
彩香との関係で気付いたことがある。男女の関係を計る物差しはいくらでもあるだろうが、1泊5万の部屋で抱こうが、1回2万で抱こうが、自分の満たされ具合に変わりはないということだ。関係が人として対等かどうかを気にしてばかりいた私は、恋愛をしていたというより、むしろ相手への体面を取り繕っていた様なものだ。実はそれはどうでも良いことで、つまり私自身は、そうではない物を求めていることに気付いたのだった。
「何?」
彩香が髪を掻き上げながら顔を覗き込んでくる。耳に掛かった髪が零れ、私の胸に落ちて流れる。
「ああ? いや、ぼうっとしていた」
しかし彼女は、そんな返事ははなから聞いていないかのように、私の胸に自分の髪を滑らせている。
「どう? くすぐったい?」
「くすぐったいねぇ」
「えへへへへ」と悪戯っぽく笑いながら、その行為に没頭している。
私は目を閉じ、そしてしばらくしてから彼女の髪を撫でた。そうするものだからするのではなく、こういう彩香に感謝している気持ちを表しているつもりだった。
「あっ、髪はだめだよぅ」
「おっ、ごめん」
一仕事終える度にシャワーを浴びる彼女達も、髪だけは傷むのを避けて濡らさずに済まそうとする。だから「髪は」触れられるのを嫌がる女が多い。胸に落とすのは良くて、手で触られるのが駄目というのは何か矛盾している気もするが、そもそも、私に女のルールが理解できたことなぞない。
何か急に興醒めしてベットから起き上がったが、その仕草が少し乱暴だったのかも知れない。きょとんとした表情で彩香は私を見ている。取り繕うように「ああ、もうそろそろ出ようか」と努めてソフトに言ってみる。
そんなことで興醒めするだなんて矛盾しているじゃないかという思いがそうさせていた。
そうだ。私は、矛盾しているだろう。
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第7話(最終話) そして忘れ物
打ち合わせを終えて、表に駐まっていたタクシーに乗り込む。混んだ辺りを過ぎて、そういえばいつものクレムドゥコールがそろそろ切れるのだっけと思い出し、幹線道路から1本入った店に近い辺りで降りる。しばらくこの街に寄っていなかったことと一緒に、あのバーにも行っていないことを思い出す。
その後芝崎さんとは寝ていない。寝ていないまま時間が経って今に至る。何通かのメールと、何度かの電話を貰い、バーで見掛けて少し言葉を交わした事もあったが一度だけで、そしてそのままにしている。きっとこのままだろう。このままがスマートだと思う。
そう思いながら、ふと、そういえば芝崎さんはわたしのことをどう思っているのか、そしてこの先どう思い出すのか、自分が全く考えていなかったことに気付く。わたしにはそういうところがある。
スマートな女だったと思うだろうか。素敵な一時を過ごせたと思うだろうか。いくら何でもそんなお人好しではないだろう。案外、下着の脱ぎ方だけ覚えられていたりして。
そういえばわたしはどんな脱ぎ方をしていただろう。上目遣いに相手の目を見つめながら、その視線の先を摘むように下着の縁に指を掛けていただろうか。いやいや全然していない。彼と寝るときのわたしは、ただ目を瞑って、彼に脱がして貰っていたのだった。そういう様に扱って貰うことが、わたしにとっては多分嬉しかった。実のところスマートではないし、面白くもない。そういうわたしだったのだ。
芝崎さんは、役掛かったり気取ったりせず、ぎこちなく律儀に過ぎたかも知れないけれど、そういうわたしを丁寧に扱ってくれた。
ありがとう。そう少しだけ思った。そう思ったことぐらいは覚えておこう。
ふと気付くと駅に着いており、目的のクレムドゥコールを買っていなかったことに気付いた。
了

あとがき 前見て歩け。
仕事繋がりのライター女史が、twitterで「物書き」ということに関して「“自称物書き”は自分の周りに何人もいます」と発言していた。当時、自己紹介に「アマ物書き」と書いていた私は、何か自分のことを書かれたようで少し複雑な気分になったものだった。実際物書きというのはプルーフのされ具合次第だろうし、そもそもそれで食っていること自体は、実は物書きとしてのプルーフとは限らない。しかし、つまり翻って自分はどうなんだよと。そう考えざるをえなくなった。
そこへ、暫く公開を躊躇っていた掌編を公開しようと思い立つきっかけがあり、本欄読者諸氏(ブログでその書き様はミスマッチだろうが)には全く寝耳に水のことだろうが、今回の1週間毎日更新の掌編小説連載と相成った。
元は2本の話を別の物として書き始めていたのだが、続けて読むと以前書いた「コンビニへ」/「言い訳」の組み合わせの様になっていた。あの時と違って今回は書いた時期も同じだし、それぞれの登場人物も充分交差しうる設定と距離感なので、これは1本の話としてまとめてみるのも面白いかなと考えた。ただし、完全にではなく、あえて「そうとも取れる」位置関係にした方が、すれ違いの話としては洒落ている様に思った。
面倒だったのは、どちらも本欄の連載のために書いていたので1話800字となっていた事。1話完結で互い違いに話が進む様にしないとならないし、両方合わせて7回で納めないと長過ぎる。
あくまで余談だが、ラストの「クレムドゥコール」なる物は特定ブランドの基礎化粧品だが、メジャーではなく、これがなければ日常生活に支障を来す物でもない。つまり、これはそういう事なんだという意味なのだが、まあ枝葉末節である。
セックスに対するドライさの対比はテーマ通りだが、女が次の方向を見出して歩み出すのに対し、男が何とも内向きなのは、実は書き進むうちにそうなった。でもこれが自然だろうねぇ。
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