としてのガン

小隊長


 東南アジアのとある地域では、オトコ達の多くがごついハンドガンを持っている。それらのほとんどはハンドメイドのコピー品だという。日本のヤクザの中には、メーカー品よりはるかに安いこれらの銃を密輸した組織もあるそうだが、実用性・安全性ともにかなり怪しい様だ。なぜならこれらのハンドガンは、実用品とかコピー商品というよりも、むしろオトコ達のシンボルとして作られている物だからだ。

 銃器という道具の最も多い使用目的は、言うまでもなく人殺しだ。競技用とか狩猟用とかを目的とする銃器は、全体の何分の一でしかない。そんな道具を嗜好したり蒐集したりするのだから、大抵はガンマニアなどというと白い目で見られたりするし、正直言うと私自身この趣味に市民権があるとは考えていない。

 また、その負の使用目的のために、銃器の工業製品としての魅力は実際に魅せられた者にしか見えないということがある。シビアな目的を持ち、莫大な予算をかけて作られる道具の持つ機能美は、贈答用の文房具程度には持ち得ないレベルのものを持っている事も多いだろう。

 しかし一方で、銃器には道具としての使用目的や機能美だけでは括れない"力"が存在するのも事実だ。あるいはそれを、古代宗教や日本でも土着の信仰に見られたりする男根崇拝的なものと重ねて考える捉え方もできるだろう。前出の東南アジアの手製ハンドガンには同様のものが端的に現れているように思う。実用性の怪しい東南アジアのハンドガンは、道具としての使用目的のためではなく、その力の象徴として存在する。

 これは、玩具の弾が発射できようが形が正確であろうが、あくまで本物に対する模型でしかない日本のトイガンにあっても存在する力ではないかと私は考えている。サバイバルゲームやシューティングマッチの道具としてのエアソフトガンも、発射機能を除く実物のメカニズムを模したモデルガンも、それなりの道具としての使用目的や、讃えられる機能美を持ってはいるが、その目的も機能も、あくまで本物に対しての代替的なものやシミュレーションに過ぎず、銃というカタチに依存している。しかしシンボルとしての力は、銃というカタチそのものを偶像として存在するのだから、カタチとしてのみ存在するトイガンでもその意味の強さに変わりはないのではないだろうか。

 見せてまわる様な類の物ではない。
 しかし恥じて隠すべきものでもない。

 ガン。それは己の象徴なのである。私はそう考えている。