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「出口、らしきもの」について
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'01.7.22
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実は、自己紹介の代わりというのがこのコンテンツである。内容は、栴檀林サイト共通のダイヤリー/エッセイ「小隊司令部発」の編集・再録が主になっている。多少の加筆訂正はしたものの、これが平生の私の文章であり、そういう意味で、ある種の自己紹介としてお読みいただければという意味合いである(再録部分は「公文書」に移設〜'09.8.15)。
まるきりそのままでは、以前より読んでいただいている方には無意味なものになってしまうので、書き下ろしの掌編や、ちょっと毛色の変わった昔の作品も加えてみた。旧い友人たちにとっては大方はいずれにしても無意味なんだが、"自己紹介"なのだから当然と言えば当然か。
さて、タイトルの意味だが、思わせぶりに読めなくもないが、意味はいたってシンプルである。
「(ものごとには)入口があれば出口がなければいけない」。
「なければ文章を書く意味なんてない」。
村上春樹の『1973年のピンボール』に出てきた言葉だけれど、私はこの言葉が気に入っている。
そう。入口があり、そして、出口がそこに"あって欲しい"。そういう切なる思いと苦悶があって、何かを考え、何かを記し、私は毎日を過ごしているのだと思う。それでいて、未熟な自分の出口は、振り返ってみれば「らしきもの」でしかなかったりするのである。そして、相変わらず自分がそこに留まっていることを認識させられるのである。
出口は其処に在り、其処には無い。もっと裡なる処に、おそらくは在るのだろう。
そう思う。
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